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八王子から山梨の旅
2017年8月20日 青春18きっぷ 100名城めぐり

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  八王子城甲府城武田氏館・甲斐善光寺  

青春18きっぷ
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事前の計画案
旅の行程表

 青春18きっぷで東北地方内陸部の旅に出かけたが、2泊3日だったため、2日分のきっぷが残った。そこで、利用期間中に2回、日帰りの旅をすることにした。
 最初は、東京都の高尾駅経由JR中央本線で山梨県の甲府駅まで行き、八王子城甲府城武田氏館を見て廻ることにした。1日で3城廻れれば効率が良い。
 大宮駅を6時15分発のJR埼京線に乗り、武蔵浦和駅に出て、JR武蔵野線で西国分寺駅まで乗り継ぐ。西国分寺駅からは新宿方面から来るJR中央本線に乗って、高尾駅で降りる。
高尾駅の写真  高尾駅ホームの写真
高尾駅:右は反対側ホームにあった天狗の像

 近くに高尾山がある。高尾山は京王高尾線の高尾山口駅が近いが、JRでは高尾駅が最寄駅になる。高尾山は天狗で有名なので、天狗の像が飾ってあるのだろう。
 八王子城は、高尾駅から西東京バスで約30分。霊園前・八王子城跡入口下車だ。バス停を降りて約1km歩くと八王子城跡ガイダンス施設に着く。ここでスタンプを押す。早朝で開いているか心配したが、施設の入口前にスタンプが設置してあり開館前だったが、無事押すことができた。
 八王子城本丸跡へは登山になる。
 見学を終え、降りたバス停からバスで高尾駅に戻る。9時40分に駅到着。9時52分高尾駅発の「ホリデー快速ビューやまなし」が来る。青春18きっぷは快速に乗ることができる。念のため改札で青春18きっぷを見せ、乗車できるか確認したところ、自由席なら乗車できるとのこと。ラッキー!!
 偶然乗れた「ホリデー快速ビューやまなし」は特急電車のようで快適。2階建車両だった。自由席でも空席があり座ることが出来た。
 「ホリデー快速ビューやまなし」は土日祝日に運転される新宿~小淵沢駅の臨時列車で週末の山梨・長野方面への日帰り旅行に利用されている。残念ながら、コロナの影響か2020年11月29日以降の運転予定はない。ぜひ、復活させてもらいたい。

ホリデー快速ビューやまなしの写真
甲府駅 「ホリデー快速ビューやまなし」

 11時15分甲府駅に到着。甲府駅南口近くに甲府城、北口から約2.2km徒歩30分ほどで武田神社(武田氏館)がある。甲府城武田氏館を見学し、甲府駅に帰る途中、武田信玄公の墓に立ち寄る。13時すぎには甲府駅に戻ってきた。甲府駅の隣の酒折駅に出て甲斐善光寺をお詣りする。駅から約1kmほど。徒歩で参拝。酒折駅に戻ったのは14時40分。後はひたすら電車を乗り継ぎ家路を急いだ。
 
酒折駅の写真
酒折駅

  武田信玄公(武田大膳太夫信濃守信玄)

  大永元年(1522)11月3日〜元亀4年(1573)4月12日
 武田信玄は、武田信虎と大井夫人の長男として生まれる。成人して晴信を名乗るが、一般に知られている信玄は法名である。
 天文10年(1541)、父信虎を駿河に追放して甲斐の守護となり、信濃を制圧して上杉謙信と対立し、五度に及び川中島で合戦を繰り返す。
 その後将軍足利義昭ら反織田信長勢力と結び、戦国最強と謳われた甲斐軍団を率いて京都進出を企て、徳川家康を三方ヶ原に破る。天正元年(1573)三河の野田城攻略中に発病。帰国途中の信濃国伊那駒場で没する。享年53歳。3年間喪が秘され、天正4年に恵林寺で葬儀が行われた。
 甲州法度の制定、信玄堤の名で知られる治水工事など、民政家として抜群の手腕を振るって領国経営にも尽くした。
 ~ 現地案内板引用 ~

武田信玄公の像の写真
甲府駅南口 武田信玄公の像
 
  甲斐国主 武田信玄公御墓所について

天正元年(1573)4月12日、信州伊那駒場で53歳を一期として、波瀾の生涯を閉じた英雄信玄公はその臨終に際し3年間の秘喪を命じた。嫡子勝頼公は、これに従い、信玄公の遺骸を密かにして、3年後、二十四将の一人、 土屋右衛門昌次の邸内で、荼毘に附し、天正4年4月16日、塩山、恵林寺に於て、葬礼を行い、埋葬した。岩窪の墓所は、土屋氏の邸跡で、後世これを、魔縁塚と呼び、里人は恐れて近づかなかったとい う。それから、およそ二百年後の江戸時代安永8年(1779)甲府代官、中井清太夫が発掘して石棺を見つけ、その銘に「法性院機山信玄大居士・天正元年癸四月十二日薨」とあったので、もとのように埋め幕府に届けて、信玄公の墓と定めた。この時、東花輪村、田中喜衛門、西花輪村、内藤正助、外52人の武田家の旧臣有志が大石碑を建て、荘麗な聖域とした。碑文は時の円光院住職・愚應の書である。現在地域住民は、ここを信玄公さんの墓と敬愛し、小供達と共に精神的憩いの場となっています。又地元老人クラブの人々が、毎月一回清掃奉仕を行い自治会では、年中行事として、四月十二日の命日に円光院並びに近隣の寺院の協力に併せて、信玄公さんの祭りとして墓前法要を勤め、ありし日の国主を偲んでおります。
 昭和五十六年九月吉日
 岩窪町自治会
 岩窪町老人クラブ  建之
 ~ 現地案内板引用 ~
 
 
武田信玄公御墓所の写真
武田信玄公御墓所
 
 
  信玄公の墓碑陰銘

公 姓源名晴信武田其氏也頃壯下髮稱機山信玄天正元季癸酉四月十二日薨權葬三年乙亥四月火浴于此地以分骨云今茲己亥春重民某等戮力新造碑蓋傚羊祐之墮淚碑聊伸景仰之誠也一日掘地得灰與骨然則其衣薪之迹明矣古碑日三年不發哀為有敵國其文雖不完今又藏擴申請後人徵之矣
 安永八年龍集屠維大淵獻孟夏上浣日
 住、瑞嵓山圓光禅院嗣祖沙門獃愚應謹誌
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  武田信玄公御墓所の写真
武田信玄公御墓所

 
    甲斐善光寺の歴史と宝物
 当山は、開基武田信玄公が、川中島の合戦の折、信濃善光寺の焼失を恐れ、永禄元年(1558)、御本尊善光寺如来像をはじめ、諸仏寺宝類を奉遷したことに始まります。板垣の郷は、善光寺建立の大檀那本田善光公葬送の地と 伝えられ、善光寺如来因縁の故地に、開山大本願鏡空上人以下、一山ことごとくお迎えいたしました。その後、武田氏滅亡により、御本尊は織田・徳川・豊臣氏を転々といたしましたが、慶長3年(1598)信濃に帰座なさいました。甲府では新たに、前立仏を御本尊と定め、現在に至っております。
 江戸時代には、本坊三院十五庵を有する大寺院として浄土宗甲州触頭を勤め、徳川家位牌所にもなっておりました。豪壮な七堂伽藍は、一度焼失いたしましたが再建され、東日本最大級の伽藍として広く知られております。また、重要文化財5件・県指定文化財4件、市指定文化財8件をはじめとする文化財の宝庫として著名で、その一部は宝物館等で公開しております。
 ~ パンフレット引用 ~


  御本尊善光寺如来像
   (御開帳仏・重要文化財)
 金堂正面厨子安置の、当山の御本尊阿弥陀三尊像は、建久6年(1195)尾張の僧定尊が、信濃善光寺の前立仏として造立したものです。善光寺の御本尊は、仏教伝来とともに将来された、生身すなわち、実際に生命が宿っている霊像として深く信じられておりました。しかし、絶対の秘仏のため、人々が拝むことはできません。そこで鋳造されたのが、本像であると考えられ、文化史的にもたいへん貴重な存在です。本像は、いわゆる一光三尊式善光寺如来像の中では、在銘最古、かつ例外的に大きな等身像として知られています。平成9年春に、御本尊の八十年振りの御開帳を厳修いたしました。以後は信濃善光寺様と同様、七年目ごとの御開帳を予定しております。
 ~ パンフレット引用 ~

 
  甲斐善光寺山門の写真
甲斐善光寺 山門
 
 
  金堂・山門

 武田信玄公建立の七堂伽藍は、宝暦4年(1754)門前の失火により、灰燼に帰してしまいました。現在の金堂・山門は、寛政8年(1796)に再建されました。金堂は、善光寺建築に特有の撞木造とよばれる形式で建てられています。総高27m、総奥行49m。文化財指定木造建築物として、日本でも十指に入る巨大なもので、重層建築の山門とともに重要文化財に指定されております。金堂下には、「心」の字をかたどる、珍しいお戒壇廻りもあり、鍵を触れることによって、御本尊様と御縁を結んでいただけます。
 ~ パンフレット引用 ~

 
  甲斐善光寺金堂の写真
甲斐善光寺 金堂

 
    日本一の鳴き龍
 金堂中陣天井には、巨大な龍が2頭描かれています。廊下の部分のみ、吊り天井となっており、手をたたくと多重反響現象による共鳴が起こります。当山の鳴き龍は、日本一の規模を持ち、参拝者に親しまれております。
 ~ パンフレット引用 ~

  境内史跡
 境内鐘楼堂の銅鐘(県指定文化財)は、信州から引きずって運んだ「引き摺りの鐘」として知られ、現在でも時を告げております。
 歴代上人墓所の隣には、ケヤキの巨木に挟まれて、豊臣秀吉配下の戦国大名加藤光泰の墓(市指定史跡)があり、金堂裏の阿闍梨の井戸など、伝説に彩られた史跡も、周囲に点在しております。
 ~ パンフレット引用 ~
 
  甲斐善光寺鐘楼堂の写真
甲斐善光寺 鐘楼堂

 
  パンフレットと入場券の写真
パンフレットと入場券

 
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くつ

1日の歩数
30,808歩

20.03km
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