「みつかる君 100名城めぐり」タイトル画像
東北地方内陸部の旅
2017年7月28日 青春18きっぷ 100名城めぐり

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  山形城  
 
青春18きっぷ
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事前の計画案
旅行予定表
   東北地方内陸部2泊3日の旅も最終日。山形城に登城して、帰宅する予定。途中、山寺・文翔館・上杉神社・米沢藩主上杉家墓所なども見学予定だ。米沢駅で福島行の電車が13時08分の次は、17時44分と発車時間がかなりあく。13時08分発に乗るのでは見学時間が限られてしまう。折角、山形に来たのだから、あっちこっち見学することにして17時44分発の福島行に乗るように計画した。これが後々、大変なことになるとは思いもしなかった。
 早朝、6時10分仙台駅発JR仙山線の電車で山寺駅に向かう。7時16分山寺駅に到着。

   
    仙台駅の写真
仙台駅


山寺駅の写真
山寺駅


山寺入口の写真
山寺入口

   
   
 山寺の立石寺では1,015段の石段を登ることになる。入山料金300円を納め、いざ登山。 
 早朝のためか、空気は清々しく、とても気持ちよく登ることができた。
 9時14分発の仙山線に乗り、山形駅を目指す。当初の予定より早く、9時30分には、山形駅に到着。早速、山形城を見学。あとは、歩いて文翔館、市内観光して回った。
 山形駅からJR奥羽本線・米沢行で米沢駅へ。当初の予定どおり13時04分に到着した。
 上杉伯爵邸で遅い昼食をとる。 

   
    献膳料理の写真
上杉伯爵邸の献膳料理

   
     食後、多少雨がぱらつく中、上杉神社、米沢藩主上杉家墓所、伝国の杜 米沢市上杉博物館などを見学。
 17時44分発JR奥羽本線・福島行に乗る頃には雨が本格的になっていた。これから帰路につくので、大宮駅到着予定は23時11分だ。途中、車内で夕食をとろうと駅弁「牛肉どまん中」を買う。
 ところが、福島駅に電車が近づくにつれ、雨足は増すばかり。ついに、集中豪雨と化し、福島駅では在来線が止まってしまった。
 福島駅に停車中のJR東北本線・黒磯行の電車の中で買った駅弁を食べながら、困ったなぁと思案する。しきりに駅構内放送で、「在来線は豪雨のため不通です。新幹線は定刻通り運転しています。」と繰り返している。このまま復旧を待っても、まだ黒磯駅と宇都宮駅で乗換がある。遅れているので、うまく乗り継ぎが出来るか心配だ。
 青春18きっぷの旅はここまで!!
 新幹線に乗って帰ることにする。新幹線乗り場まで移動する途中の駅構内ではボシャボシャと雨漏りしていた。
 結局、大宮駅には20時到着。新幹線のおかげで、3時間30分近く早い到着となった。ちなみに青春18きっぷで新幹線は乗れない。普通乗車券と特急券を買い直さなければならない。新幹線の有難味を今更ながら痛感した。
 大宮では雨が降っていなかった。

   
    牛肉どまん中の写真
駅弁「牛肉どまん中」


新幹線の切符の写真
新幹線の切符

   
    福島駅新幹線発車案内表示の写真    

  山寺の大イチョウ

  市指定天然記念物
  昭和四十年三月五日指定
 史跡名勝「山寺」の山内、山寺日枝神社境内の南東隅にある イチョウの雄株です。根元の周りが約10m、地上1.5mのところの幹周りが9.6mを測ります。山形県内では、南陽市宮 内熊野神社の大イチョウ、鶴岡市湯田川の乳イチョウなどと肩を ならべるほどの巨木で、市内では最大のイチョウの木です。
 以前は、樹高およそ30mの主幹がありましたが、昭和47年9月17日未明の暴風によって、地上4mほどの上部で折損し、樹冠の大半を失いました。その後、数十年の歳月を経て現在のように樹勢は挽回し、山寺一円の守護神である日枝神社のご神木として、歴史の年輪を刻み続けています。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
山寺の大イチョウの写真
山寺の大イチョウ

 
    芭蕉と手水盤
  「閑さや岩にしみ入る 蝉の声」
「おくのほそ道」の旅で、芭蕉が門人の曽良とともに山寺を訪れたのが元禄2年(陽暦)7月13日の夕刻である。麓の「預り坊」に宿をとり、その足で山上の堂に 登った事が「曽良旅日記」には記されている。
 二人が山寺を訪れた十年後の元禄12年4月19日にその「預り坊(預り里)」よ り奉寄進されたのが、この手水盤である。
 その年の4月19日というのは「四月中の申の日」に当たってをり、日枝神社の大祭日となっている。またこの手水盤の前面には「預り里」を筆頭として寄進した人の名が数名刻まれている。
 また両側面にも11名の人名が刻まれてをり当時の山寺の様子を探る上で重要な手がかりであり、貴重な文化財である。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  芭蕉と手水盤の写真
手水盤

 
  芭蕉句碑の写真
芭蕉句碑

 
    姥堂
 この堂の本尊は奪衣婆の石像。ここから下は地獄、ここから上が極楽という浄土口で、そばの岩清水で心身を清め、新しい着物に着かえて極楽に登り、古い衣服は堂内の奪衣婆に奉納する。
 一つ一つの石段を登ることによって、欲望や汚れを消滅させ、明るく正しい人間になろうというもの。
 左の大きな岩は、笠岩とも笠投石ともいい、慈覚大師が雨やどりしたところとも伝えられる。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  姥堂の写真
姥堂

 
    修行者の参道
 お山の自然にそってつくられたこの参道は、昔からの修業者の道。一番せまいところは約14センチの四寸道で、開山・慈覚大師の足跡をふんで、私たちの先祖も子孫も登るところから、親子道とも子孫道ともいわれている。左上にそびえる百丈岩の上に、納経堂や開山堂、展望随一の五大堂がたっている。
 参道のあちこちの、車のついた後生車という木柱は、年若くして亡くなった人の供養で、南無阿弥陀仏ととなえて車をまわすと、その仏が、早く人間に生まれて来ることができるという。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
    せみ塚
 松尾芭蕉のおくのほそ道の紀行文に、山形領に立石寺といふ山あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地なり。一見すべきよし、人々の勧むるによりて、尾花沢よりとつて返し、その間七里ばかりなり。日いまだ暮れず。麓の坊に宿借り置きて、山上の堂に登る。岩に厳を重ねて山とし、松栢年旧り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて物の音聞こえず。岸を巡り、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心澄みゆくのみおぼゆ。
  閑かさや岩にしみ入る蝉の声
 芭蕉翁の句をしたためた短冊をこの地に埋めて、石の塚をたてたもので、せみ塚といわれている。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  せみ塚の写真
せみ塚

 
    弥陀洞
 ながい歳月の風雨が直立した岩をけずり、阿弥陀如来の姿をつくり出した。
 一丈六尺(約4.8m)の姿から丈六の阿弥陀ともいい、仏のお姿に見ることができる人には、幸福がおとずれると いう。
 山寺の岩は、新第三紀中新世の凝灰岩からなっており、自然の景観を土台にして、宗教文化の殿堂が築きあげられている。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  弥陀洞の写真
弥陀洞

 
    仁王門
 嘉永元年(1848)に再建されたけやき材の優美な門で、左右に安置された仁王尊像は、運慶の弟子たちの作といわれ、邪心をもつ人は登ってはいけないと、睨みつけている。後方の閻魔王がこの門を通る人たちの過去のおこないを記録するという。
 右の岩穴に見える石塔には、亡 くなった人のお骨が入っており、他の岩穴にも古い人骨が納められ ている。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  仁王門の写真
仁王門

 
    開山堂と五大堂
 立石寺を開いた慈覚大師のお堂で、大師の木造の尊像が安置されており、山内の僧侶が朝夕、食飯と香を供えてお勤めをしている。江戸時代末期の再建である。
 向って左、岩の上の赤い小さな堂は、写経を納める納経堂で、山内で最も古い建物である。県指定文化財で、昭和62年に解体修理がおこなわれた。その真下に、慈覚大師が眠る入定窟がある。
  頭上の建物は五大堂といい、五大明王を祀って天下泰平を祈る道場で、山寺随一の展望台でもある。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  納経堂と五大堂の写真
左:納経堂  右:五大堂

 
  五大堂から望む写真   五大堂の写真  
五大堂から望む       五大堂   

    修行の岩場
 正面の岩に巌をかさねた岩場は、釈迦ヶ峰といい、危険な岩場を通って、お釈迦さまのみもとにいたる行場で、出世や欲望のための修行者が、岩場から転落死したことも多かったと伝えられており、今では修行者以外の登山を禁じている。

 みちのくの仏の山のこごしごし
 岩秀に立ちて汗ふきにけり
  斎藤茂吉
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  修行の岩場
修行の岩場

 
    最上義光公御霊屋
 戦国の混乱の時代に、山形の地を愛し、民を愛し、出羽国に平和と安定をもたらし、現在の山形の基礎を築いた、山形城第11代当主「最上義光」公(1546~1614)と家臣ら合計11人の位牌が納められています。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  最上義光公御霊屋の写真
最上義光公御霊屋

 
    奥之院と大佛殿
 正面右側の古いお堂が奥之院ともい われる如法堂で、開山・慈覚大師が、中国で修行中に持ち歩いた釈迦如来と多宝如来を本尊とする。石墨草筆の写経道場で、明治5年に再建された。
 左側の大仏殿には、像高5mの金色の阿弥陀如来像を安置し、毎日、卒塔婆供養をおこなっている。秋、彼岸の中日の施餓鬼法要は、宗派をこえた数千人の参拝者でにぎわう。
 奥之院まで千十余段の石段を、一段一段登ることによって、煩悩が消滅され、幸福になれるという。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  奥之院と大佛殿の写真
奥之院と大佛殿

 
 
 山形県旧県庁舎・県会議事堂(文翔館)
 山形県は、山形県旧県庁舎及び県会議事堂を貴重な文化遺産としての保存と県民の郷土への理解を深め、文化の振興を図るため、山形県郷土館(愛称:文翔館)として平成7年開館。
 
 
文翔館の写真
文翔館

 
    山形県旧県庁舎
  重要文化財
 この建物は、 レンガ造りの三階建で大正5年6月15日に落成し、昭和50年9月新県庁舎が建設されるまでの間、県庁舎として使用されました。
 その後、東南村山合同庁舎として昭和59年まで使用されました。
 昭和59年12月28日旧県会議事堂とともに国の重要文化財として指定されております。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
   貴賓室の写真 
貴賓室

  貴賓室
 皇族や国の高官が来県した際に控室等として使用された部屋で、昭和の中頃以降新県庁舎移転(昭和50年)まで、副知事室として使用されました。修復工事では、当時の写真や調査資料により、家具とシャンデリアを復原しました。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
   議場の写真 
議場

  議場
 県会の議場として使用されていた部屋ですが、議員席等は固定ではなく、県会で使用しないときには講演会、演奏会等の会場として公会堂的に使用されていました。昭和5年に新県会議事堂が建設されてから、事務室として改造されていました。半解体調査や写真等の資料をもとにかまぼこ型のヴォールト天井、床のノリウム。バルコニーなどを復原しました。 事務室として 改造されてから、学務部、健康保険課等の部屋として使用され、その後文書学事課 電話交換室等として、新県庁舎移転(昭和50年)まで使用 されました。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
 
 山形七日町二郵便局の写真 
山形七日町二郵便局

  山形七日町二郵便局
 大正14年(1925)建造で山形の初期の鉄筋コンクリート建築の草分け的存在。昭和47年まで洋品店だったが、戦後の一時期に2階はダンスホールやビリヤード場として使われたこともある。郵便局となってからは、正面の1階は出入り口やショウウィンドウの位置が大きく変えられたが、全体として当初の優美な意匠は保たれ、昭和初期の華やかさを偲ぶことができる。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
   御殿堰の写真 
御殿堰

  御殿堰
「御殿堰」は「山形五堰」の一つで、中心街を網の目のように流れている農業用堰です。寛永元年(1624年)当時の山形城主鳥居忠政公が、城への水の供給と生活用水・農業用水の確保の為、築造したとされています。山形城の城濠に流入する堰であった事から「御殿堰」と名付けられ、城下の形成にも深く関係し、山形市の歴史的財産となっています。現在も市街地を流れる清流は市民に憩いと安らぎを与え、下流域の農地には貴重な農業用水として重要な役割を担っております。この親水空間は、山形らしい町並みと景観を再現し、生活に潤いをもたらす昔ながらの石積水路として復元されました。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
   山形城跡の写真 
山形城跡
   山形城跡
  国指定史跡

  昭和61年5月28日指定
  昭和62年7月9日追加指定
 山形城は、山形へ入部した斯波兼頼が延文2年(1357)に築城したもの、と伝えられています。これを最も大きい規模に構築したのが山形城主最上義光で、五十七万石といわれる領地を獲得した慶長6年(1601)以降のことと考えられています。
 城は本丸・二の丸・三の丸を有する平城で、その規模は東西1,480m、南北1,881mに及んだと言われています。まさしく平城としては全国有数の大きさでした。
 ここ歌懸稲荷神社境内の西側に残る土塁は、三の丸の東南方の十日町口に南接する部分にあたります。昔を偲ばせる樹木が繁茂しており、東側には堀跡が窪みとなって残っています。
 現在は、二の丸の区域内(霞城公園)とともに、山形城跡として国の史跡に指定されています。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  上杉記念館(上杉伯爵邸)の写真
上杉記念館(上杉伯爵邸)
 
 
  上杉記念館(上杉伯爵邸)

 上杉記念館は、上杉家十四代当主茂憲伯爵邸として、明治29年に建築。米沢城二の丸跡にあり、鶴鳴館と称されまし た。大正8年の大火で類焼し、大正14年5月に再建されました。庭園は東京浜離宮に倣って築園されており、庭園を見ながら、米沢伝統の郷土料理が味わえます。平成9年に国の登録有形文化財にな りました。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
 
上杉神社の写真
上杉神社

 
  米沢藩主上杉家墓所の写真
米沢藩主上杉家墓所
 
    米沢藩主上杉家墓所
 歴代の米沢藩主の墓所で、杉木立の中に整然と廟屋が並び、市民からは御廟所あるいは御霊屋と呼ばれている。
 中央正面奥が戦国時代の名将上杉謙信公の廟で、上杉氏の移封に伴い、越後春日山から会津若松へ、そして1601年、米沢城本丸へ移された。さらに明治9年にこの地に移葬され、墓所全体が現在のように整備された。
 謙信公の廟屋の向かって左が上杉家二代(初代米沢藩主)景勝公の廟。元和9年(1623)に景勝公が死去すると、火葬に付され遺骨の大部分は高野山に納められ、この地には分骨という形で遺灰や衣服を埋めて五輪塔を置き、入母屋造りの廟屋を建てた。以後、八代宗房公まで同じ形式で左右交互に廟が造られた。
 寛政6年(1794)、世子(次期藩主)の顕孝公(鷹山公の長男)が19歳で急死した際、火葬から 土葬に攻められた。廟屋は宝形造りとなり、以後9代重定公から12代斉定公まで土葬が続いた。
   十一代 治広公
    九代 重定公
    七代 宗憲公
    五代 綱憲公
    三代 定勝公
  初代  謙信公
    二代 景勝公
   十四代 茂憲公記念碑
    四代 網勝公
    六代 吉憲公
    八代 宗房公
    十代 治憲公(鷹山公)
    世子 顕孝公
   十二代 斉定公
 この荘厳な廟所は、西110メートル、南北180メートルで、樹齢 四百年を越す老杉があり、近世大名所墓所の代表例として昭和59年に国の重要な史跡に指定され、平成6年から同20年にかけ保存修理工事が行なわれた。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
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パンフレットと入場券

 
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くつ

1日の歩数
22,407歩

14.6km
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