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甲府城 |
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場所 :
山梨県甲府市 (Googleマップ)
築城年代 : 文禄・慶長年間 (1590年代)
築城者 : 浅野長政・幸長
主要城主 : 加藤氏・浅野氏・徳川氏・柳沢氏
スタンプ設置 : 舞鶴城公園管理事務所、甲府城稲荷櫓
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![甲府城の地図](025_koufu/map_koufu.jpg)
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甲府城の歴史
天正10(1582)武田家の滅亡後、甲斐国は織田信長を経て徳川家康が領有し、新たに一条小山の地が城地として取り立てられました。その後、羽柴秀勝、加藤光泰、浅野長政・幸長らの豊臣系の諸大名が甲斐を支配するようになると、一蓮寺などの寺社を移転させ、本格的な築城工事が進められます。城が完成したのは慶長5年(1600)ごろのことです。
甲府城は、江戸時代前期に徳川将軍家の一門が、中ごろには柳沢吉保が城主となり、城とともに城下町も整備されました。しかし、柳沢家が大和郡山に転封になると、再び幕府の直轄地となり、甲府勤番の支配下に置かれて幕末を迎えます。
明治時代になると廃城となって、主な建物が取り壊され勧業試験所として利用が始まるなど新たな歴史を歩み出しました。
~ パンフレット引用 ~
甲府城の構造
甲府城は、中央の内城(一の堀内側)とそれを取り巻く内郭(一の堀と二の堀の間)、その外側の外郭(二の堀と三の堀の間)に分けられます。狭義の甲府城は内城部分を指し、内部は武家屋敷、外郭は武家屋敷を含む町人屋敷にあたります。
中央の最高所に天守台がおかれ、その西側一段下に本丸があります。本丸を中心に東から南にかけて天守曲輪、西に細長い帯曲輪を挟んで二の丸、北に小さな人質曲輪があります。人質曲輪の下は稲荷曲輪が北から東にかけて存在し、東端に数奇屋曲輪、南に鍛冶曲輪、現在の県庁周辺の楽屋曲輪、山交百貨店から東側にかけての屋形曲輪、甲府駅周辺の清水曲輪、線路と東京ガス北側に花畑曲輪が配置されていました。
~ パンフレット引用 ~
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![舞鶴城公園入口の写真](025_koufu/IMG_0991.JPG)
舞鶴城公園入口
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稲荷櫓
城内の鬼門(北東)に位置することから艮櫓ともよばれ、江戸時代には武具蔵として使われていた建物です。明治初年まで残っていたことが古写真などでわかっており、発掘調査でも2度にわたり建物を建築した痕跡(遺構)と、土地の平安を祈るための輪宝
(地鎮具) が6点見つかりました。
今の建物は、この遺構や残っていた絵図や史料などをもとに、できるだけ当時の姿に復元したもの、平成16年に建築しました。
~ 現地案内板引用 ~
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![稲荷櫓の写真](025_koufu/IMG_0993.JPG)
稲荷櫓
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稲荷曲輪門
稲荷曲輪と鍛冶曲輪をつなぐ門です。発掘調査によって、柱の跡などが見つかりました。享保の火災でも焼けず、明治初年までは残っていたものを、平成11年に復元しました。
~ 現地案内板引用 ~
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![稲荷曲輪門の写真](025_koufu/IMG_1002.JPG)
稲荷曲輪門
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本丸櫓跡
城内の中心に建てられた櫓で、明治初年までは残っていたことが古写真でわかっています。
~ 現地案内板引用 ~
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![本丸櫓跡の写真](025_koufu/IMG_1005.JPG)
本丸櫓跡
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天守台
お城が建てられた当時の姿がそのまま残っています。天守台はお城のシンボルとしての天守閣が建てられる場所です。
~ 現地案内板引用 ~
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![天守台の写真](025_koufu/IMG_1008.JPG)
天守台
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![天守台から望む稲荷櫓方面の写真](025_koufu/IMG_1012.JPG)
天守台から望む稲荷櫓方面
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![天守台から望む甲府駅方面の写真](025_koufu/IMG_1013.JPG)
天守台から望む甲府駅方面
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鉄門
甲府城の歴史
今から410余年前、豊臣秀吉の命により浅野長政・幸長によっ
て甲府城は築城されました。築城は、江戸の徳川家康をけん制する目的でしたが、江戸幕府が開かれると代々徳川一門や柳沢氏の居城となりました。
鉄門復元整備事業のねらい
かつて城下町から見上げた鉄門は、明治初年に城内の他の建物と共にすべて取壊されてしまいました。この鉄門を復元し歴史景観を再現することは、甲府城跡の文化財的価値や理解をより高めるものと考えています。また、甲府中心市街地からの眺望は、新たな魅力と人の流れを生み、城下町甲府の風格と活気を取り戻すものと期待されます。
復元の流れ
【調査・研究】
絵図・古文書・古写真などの史料調査や、遺構の発掘調査をおこないます。あわせて、有識者によって組織された専門委員会の指導を受け、復元の根拠を整えました。
【保存】
残存する礎石を使い、原位置へ復元をしました。また、東西の石垣に残る梁の跡も使用し、鉄門の姿かたちを復元しています。その他、路面や水路、石段などの遺構は、埋設保存しています。
【工事】
木工事・左官工事・屋根工事とも、在来工法で作業を進めています。木材の加工、土壁塗り、瓦作成など、様々な工程がありますが、昔から伝わる工法で丁寧に仕上られます。
工法の選択
鉄門は、在来工法にこだわり工事を進めていますが、現代の建築基準法と照らし合わせると、耐震性や構造面を強化する必要があります。
そのため、基礎の一部に、補強材としてコンクリートや鉄骨を使用しています。補強材導入にあたっては、専門委員会の指導を受け、可能な限り歴史景観に違和感のないよう配慮をしています。
しかし、現代に鉄門を復元するためには欠かせない要素であり、在来工法と現代工法の融合として、完全に遮へいせずに公開しています。
~ 現地案内板引用 ~
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![鉄門の写真](025_koufu/IMG_1016.JPG)
鉄門
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内松陰門
屋形曲輪と二の丸をつなぐ門です。明治の初めまでは残っていたものを絵図や発掘調査の成果をもとに、平成11年に復元しました。
~ 現地案内板引用 ~
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![内松蔭門の写真](025_koufu/IMG_1021.JPG)
内松蔭門
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山手御門
甲府城の出入口は、南側の追手(大手)御門、北側の山手御門、西側の柳御門の三カ所がありました。山手御門とこれに続く出入り口は、平成9年(1997)の発掘調査によってその位置が確認されました。
城外から木橋と土橋で堀を渡り、その先に山手門があり、虎口空間を直角に折れて二階建ての山手渡櫓門があります。
出入り口の防御を固めるため、非常に厳重なつくりとなっています。枡形門虎口型式の両者を総称して、山手御門と呼んでいます。
~ パンフレット引用 ~
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![山手渡櫓門の写真](025_koufu/IMG_1026.JPG)
山手渡櫓門
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山手渡櫓門復元
木造2階建櫓門、入母屋造本瓦葺、外部大壁白漆喰塗、內部堅板張、1階
桁行5間(10.017m)、梁間2間(4.364m)、2階 桁行7間(13.787m)、梁間3間(5.909m)、建築面積
102.82㎡、延面積 94.76㎡、軒高 29.1尺(8.817m)、棟高 37.95尺(11.499m)
~ パンフレット引用 ~
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![山手門の写真](025_koufu/IMG_1027.JPG)
山手門
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山手門復元
木造平屋建高麗門、切妻造本瓦葺、袖土壁付、門桁行14.4尺(4.363m)、控桁行9.5尺(2.879m)、棟高
19.36尺(5.866m)
~ パンフレット引用 ~
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![パンフレットの写真](025_koufu/IMG_20210630_100955.jpg)
パンフレット
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