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022 八王子城

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   八王子城  
 
 場所 : 東京都八王子市 (Googleマップ)

 築城年代 : 天正10年 (1582)以降?
 築城者 : 北条氏照
 主要城主 : 後北条氏
 スタンプ設置 : 八王子城跡管理棟前、ガイダンス施設

 

八王子城の地図
 
    【八王子城とは】
 八王子城は、小田原に本拠をおいた後北条氏の、三代目氏康の三男、北条氏照(?-1590)が築いた山城です。天正10年(1582)頃に築城が開始され、天正15年(1587)頃までに滝山城(八王子市丹木町)から拠点を移したとされます。
 豊臣秀吉の関東制圧の一環で、天正18年(1590)6月23日、前田利家・上杉景勝軍に攻められて落城しました。この八王子城落城が決め手となって、本拠の小田原城は開城、氏照はこの時小田原に籠城中で、兄の氏政と共に城下で切腹し、北条氏は滅亡しました。
 八王子城は関東屈指の山城です。氏照が構想していた城郭は壮大で、落城時はまだ未完成であったと考えられています。城は大まかに、城下町に当たる『根小屋地区』、城主氏照の館などがあった『居館地区』、戦闘時に要塞となる『要害地区』に分けられます。城山は様々な動植物が生息し、四季折々の様子を目にすることができます。散策すれば歴史を学ぶとともに、豊かな自然に触れる有意義な時間を過ごすことができます。
 ~ パンフレット引用 ~

 
  ガイダンス施設の写真
八王子城 ガイダンス施設
(スタンプ設置場所)


 
  八王子城入口の写真
八王子城本丸方面入口

 
    史跡八王子城跡 本丸周辺の曲輪
 標高460mの深沢山山頂に設けられた本丸を中心に、松木曲輪、小宮曲輪などの曲輪が配置された要害部は、籠城のための施設と考えられます。急峻な地形を利用した山城は、下からは攻めにくく、上から攻撃できる守りには有利な 構造となっています。
 天正18年(1590)旧暦6月23日、豊臣秀吉の命を受けた前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの軍勢に加え、降参した北条勢を加えた数万の大軍が八王子城に押し寄せました。一方、小田原に籠城中の城主北条氏照を欠いた留守部隊は、必死に防戦しましたが、一日で落城してしまいました。激戦の末、守備した北条方はもちろんのこと、攻めた豊臣方にも多くの犠牲があったようです。
 平成25年3月 八王子市教育委員会
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  八王子城本丸址の写真
八王子城本丸址の写真

 
    本丸跡
  国指定史跡 八王子城跡
 城の中心で、最も重要な曲輪です。平地があまり広くないので、大きな建物はなかったと考えら れています。
 ここは、横地監物吉信が守っていたといわれています。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  八王子城本丸跡碑の写真
八王子城本丸址の碑

 
    【八王子神社と地名の由来】
 八王子神社は、牛頭天王とその眷属神(主神につき従う神々)である八人の王子を祀る信仰とともに、全国に点在します。この城山の八王子権現は、延喜16年(916)に華厳菩薩妙行が祀り、北条氏照が城の守護神としたもので、城の名称や八王子の地名の由来になったとされています。
 ~ パンフレット引用 ~

 
  八王子神社の写真
八王子神社

 
    コラム 八王子神社と横地社
 延喜13年(913)に華厳菩薩妙行が、山中で修行をしている際に出現した牛頭天王と八人の王子に会ったことで、延喜16年(916)に八王子権現を祀ったといわれてい ます。
 この伝説に基づいて、北条氏照は八王子城の築城にあたり八王子権現を城の守護神としました。これが「八王子」の地名の起源とされています。
 その八王子神社の横にある小さな社は、落城寸前に奥多摩へ落ち延びた横地監物が祀られています。もともと、東京都奥多摩町にありましたが、ダム建設で湖底に沈んでしまうためにここに移しました。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  八王子神社の写真
八王子神社

 
    大手の門跡
  国指定史跡 八王子城跡
 昭和六十三年(1988)の確認調査でその存在が明らかになりました。以前から八王子城の古図などで、このあたりに門等の施設があることは予想されていました。
 発掘された礎石や敷石などから、いわゆる「薬医門」と呼ばれる形状の門と考えられています。
 ~ 現地案内板引用 ~

  コラム 大手と搦手
 一般的に、城の裏門にあたるとこ ろを『搦手』と呼びます。なぜ裏門を搦手と呼ぶのかというと、正門に攻めてきた敵を背後から“搦めとる”軍勢が出撃するためという説があります。そのためか、正門は追手がなまって『 大手』になったともいわれ ています。
 八王子城の搦手は、城の北側の恩方方面にあったといわれ、滝の沢口ともいわれていますが、滝は落ちるという意味に通じるので、当時は霧降ヶ谷と名前を変えたともいわれています。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  大手門跡周辺の写真
大手門跡周辺

 
    古道 (大手道)
 発掘調査では、当時の道は明確に検出できませんでしたが、門跡の存在や橋台石垣の検出 、さらに平坦部が尾根の中腹に連続していることから、ここが御主殿にいたる大手道であったことが明らかになりました。
 現在の道は、この地形を利用して整備 したものです。当時は、ここから城山川の対岸にアシダ曲輪や御主殿の石垣、さらに城山の稜線にそって連なる多くの曲輪や建物が見わたせたと思われます。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  古道の写真
古道(大手道)

 
    御主殿への経路
 御主殿へは、城山川上流域を越えて向かうため、このあたりに橋が架かっていたと考えられています。しかし、当時の正確な場所や構造、名称はわかっていません。
 これまで使用していた「曳橋」という名称は、江戸時代後期の地誌『武蔵名勝図会』の記載によるものです(文政3年脱稿:1820)。右下の拡大図にあるような、すぐに壊すことができる簡素な橋が架けられていたと考えられています。
 今回整備した橋は、当時の復元としてではなく、見学者が御主殿跡へ行くための通路として城山川に架けたものです。
 平成28年3月
 八王子市教育委員会
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  曳橋と御主殿へと続く道の写真
曳橋と御主殿へと続く道

 
    築城当時の石垣
 この石垣は、土の中に400年間くずれずによく残っていたので、検出したそのままの状態にしてあります。戦国時代の石積様式を示す全国でも貴重なものです。
 その特徴は、この城山山中から産出する砂岩を利用して、ひとつ一つていねいに積み重ね、その隙間には小石を詰めて全体として強固な石垣としていることです。また、石垣の勾配が急なこと、石垣の裏側にたくさんの砕いた石を入れていることも特徴です。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  石垣の写真
石垣

 
    御主殿虎口
 城や曲輪の出入口は虎口と呼ばれ、防御と攻撃の拠点となるようにさまざまな工夫がこらしてあります。
 御主殿の虎口は、木橋をわたった位置から御主殿内部まで高低差約9mを「コ」の字形に折れ曲がった階段通路としてい ることが特徴です。階段は全体で25段、踏面が平均1m、蹴上が36cmで、約5mの幅をもっています。途中の2か所の踊り場とともに、全面に石が敷かれているのは、八王子城独特のものです。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  御主殿虎口の写真
御主殿虎口

 
    櫓門跡
 この踊り場からは、4つの建物礎石が発見されました。両側の石垣の下に、敷石の面より10cmほど高くなっている大きな石がそれです。礎石の間は、東西(桁 行)約4.5m、南北(梁間)3.6mあります。想定される建物は、通路の重要な位置にあることから、物見や指揮をするための櫓門であったかもしれません。また、礎石のそばには、排水のための石組側溝も発見されています。
 この礎石や石組側溝、大部分の石垣や敷石は、当時のものを利用しています。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  冠木門の写真
冠木門

 
     御主殿跡の整備
 ここは八王子城の中心ともいえる場所で、城主北条氏照の居館があったところであり、御主殿跡とよばれています。
 平成4・5年度、平成25年度に実施した発掘調査では、「主殿」「会所」と推定される大型の礎石建物跡や、池を中心とする庭園、敷石通路、水路等の遺構が検出されました。主殿では氏照を中心にして政治向きの行事が、会所では庭園を眺めながら宴会などが行われたと考えられます。
 今回の復元的整備事業では、これらの遺構の上に60cmの盛土となるよう造成工事を行い、その整備面上に建物の礎石、庭石、通路の敷石、水路等を忠実に再現して表示しています。
 全体が発掘され、会所と推定できる礎石建物跡は、整備面から50~80cmの高さに床面を再現し、敷居、間取りも表してあります。
 庭石、建物の礎石、通路の敷石、水路に使用した石材は、近隣で採取された八王子城跡 と同種の硬質砂岩を使用しています。整備面より突出する庭石は、コンクリート製の擬岩(GRC)で覆ってあります。遺構の確認された範囲には、小舗石を並べてその範囲を明示しています。
 なお、まだ全容が明らかになっていない池跡については整備せず、一度埋め戻しました。
 平成26年9月
 八王子市教育委員会
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  御主殿跡の写真
御主殿跡

 
    塀跡
 土色に舗装した部分が塀の範囲を示しています。
 発掘調査では、礎石と狭間石の石列が検出されました。礎石に柱の痕跡が認められたものが3カ所ありました。いずれも5.5寸(約17cm)の方形でした。
 この塀は、会所の前面が見えないように作られたものと思われます。
 ~ 現地案内板引用 ~

  会所
 会所は主殿で儀式を終えた後、宴会などを行った場所と考えられます。
 広さは11間×6間(20.9m×13.3m)で、北側が主殿と廊下でつながっています。会所の北東には庭園が造られています。
 会所は、同時代の他の建物の例などを参考に床を再現しています。
 ~ 現地案内板引用 ~

  池を中心とする庭園遺構
 会所と主殿の建物に囲まれた範囲に、池を配した庭が見つかりました。池は2段ないし3段に石を組んで護岸施設をつくり、池と陸がわかれるような構造となっていました。池底には粘土がはられていましたが、各種分析の結果から見ると、大雨の後に水がたまった程度のものであったと考えられます。池の護岸周辺には大きな石を配置して、庭の景色をつくっています。池の西側には池の近くに寄れるよ うに石を敷き詰めた通路もみつかっています。池や庭に使われた石は八王子城周辺の山からとれる砂岩という石で、他から運んできたものではないようです。
 池の全容が明らかになっていないため、今回は整備を行わず、埋め戻したままになっています。
 平成26年9月
 八王子市教育委員会
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  庭園遺構の写真
池を中心とする庭園遺構

 
    掘立建物跡
 土色に舗装した部分が建物の範囲を、着色した部分が柱の位置を示しています。掘立建物とは、地面に柱穴を掘りくぼめ、そのまま柱を立てた建物のことです。
 発掘調査時に、内部が空洞になった柱穴が16カ所検出されました。落城の際に柱の根元が残り、その後柱が腐り、空洞化したものと思われます。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  掘立建物跡の写真
掘立建物跡

 
  パンフレットの写真
パンフレット

 
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