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山形城 |
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場所 :
山形県山形市 (Googleマップ)
築城年代 :
延文2年(1357)、文禄元年(1592)、元和9年(1623)
築城者 : 斯波兼頼、最上義光、鳥居忠政
主要城主 :
斯波氏、最上氏、鳥居氏、松平(越前)氏、松平(奥平)氏、奥平氏、堀田氏、松平(大給)氏、秋元氏、水野氏
スタンプ設置 :
最上義光歴史館、山形市郷土館受付窓口、二ノ丸東大手門櫓内部(4月上旬~11月上旬)
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![山形城の地図](010_yamagata/yamagata.jpg)
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山形城跡
山形城は、山形へ入部した斯波兼頼が延文2年(1357)に築城したもの、と伝えられています。これを最も大きい規模に構築したのが山形城主最上義光で、五十七万石といわれる領地を獲得した慶長6年(1601)以降のことと考えられています。
城は本丸・二の丸・三の丸を有する平城で、その規模は東西1,480m、南北1,881mに及んだと言われています。まさしく平城としては全国有数の大きさでした。
ここ歌懸稲荷神社境内の西側に残る土塁は、三の丸の東南方の十日町口に南接する部分にあたります。昔を偲ばせる樹木が繁茂しており、東側には堀跡が窪みとなって残っています。
現在は、二の丸の区域内(霞城公園)とともに、山形城跡として国の史跡に指定されています。
~ 現地案内板引用 ~
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堀と土塁の役割
堀や土塁は人工的につくられた防御施設です。本丸東堀は深さ約7m、土塁を含め高さ約10mの土手となっています。堀の幅は約33m、鉄砲・弓矢からの攻撃を避けつつ、城内から
の射程距離も考慮したつくりとなっています。
土塁は堀の掘りあげ土による盛土で、堀側(外法)は急角度で侵入を防ぎ、城内側(内法)は緩く守りやすい工夫がみられます。土塁上には土塀がめぐり、防御性を高めるとともに城の威厳を整えており、土塀基礎石列が(二ノ丸土塁上に)現存しています。堀は豊かな湧水による「水堀」で、かつては現存の二ノ丸堀と同じ趣を備えていたものと思われます。
遺構の保護と復原
本丸堀・ 土塁は発掘調査により遺構・遺物が発見されました。土塁裾には『護岸石垣』(堀の水から岸を護る玉石積)が、中段にはよ
り古い時代の『土塁中段石積』が発見されました。これらは貴重な山形城の遺構であり、記録をとったのち埋め戻して保護しています。
また、本丸東土塁の裾からは大量の瓦が出土しました。これらは土塀に葺かれていた瓦と推測しています。
復原にあたっては、資料(絵図・発掘調査)を尊重し堀底・法面には保護層土をかぶせ、土塁盛土には地滑り対策の補強シートを使用して
います。法面には在来のコグマザサ(小熊笹)を植え、表面の保護と美観を整えています。また将来的には、堀内に水を入れる予定です。
~ 現地案内板引用 ~
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![堀と石垣の写真](010_yamagata/IMG_0826.JPG)
堀と石垣
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旧済生館本館
国指定重要文化財
(昭和四十一年十二月五日指定)
本館は、明治11年(1878)、山形城旧三の丸の七日町大手門を入ったところに、初代県令三島通庸によって県立病院として建てられ、人々から「三層楼」と呼ばれ親しまれてきました。
鹿児島出身の原口祐之が大工棟梁となり、山形の宮大工たちがたった七ヶ月で完成させました。広い中庭と回廊をもつ、三層四階、高さ24メートルの見事な洋風建築です。
当時の太政大臣三条実美が、この病院を「済生館」と命名しました。二階講堂にその時の御真筆の額が飾られており、正面の金文字の額はこれを木彫りにしたものです。
三島県令は、オーストリア人のアルブレヒト・フォン・ローレツを医学寮の教頭として招き、西洋医学の教育と診療を実施しました。この病院と医学校は東北地方におけるドイツ医学のメッカとなりました。
明治初期の擬洋風建築の傑作として、昭和41年(1966)に国指定の重要文化財となり、昭和44年に現在地に解体復原されました。
現在、この建物は「山形市郷土館」として、医学資料を中心に、郷土資料が展示とれ、一般に公開されています。
~ 現地案内板引用 ~
※ スタンプ設置場所
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![山形市郷土館の写真](010_yamagata/IMG_0832.JPG)
山形市郷土館 (スタンプ設置場所)
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本丸一文字門
本丸一文字門は本丸の大手にあたり、櫓門・高麗門・桝形全体の呼び名です。櫓台石垣の上に載るのは櫓門形式の一文字櫓で、櫓の形が漢字の「一」に見えるこ
とからついた名前です。大手橋を渡り高麗門をくぐると石垣・土塀に囲まれた「枡形」に入ります。本丸に
入るには右に折れ櫓門を通らなければならず、敵の侵 入を食い止める城の工夫のひとつです。
大手橋は幅約5.5m・長さ約21.8mです。復原にあたり発掘調査により出土した木材を樹種鑑定し、出土材と同じ材質で橋脚・高欄(スギ)、橋板(クリ)、桁・梁(マツ)を使っています。
また、高欄の外観はニノ丸東大手の古写真を参考にしました。本丸一文字門の復原は平成8(1996)年の発掘調査に始まります。明治時代に埋められた本丸の姿を復原するために、桝形・櫓台石垣の修理を平成10~15年、大手橋の復原が平成17年に行われました。
~ 現地案内板引用 ~
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![本丸一文字門の写真](010_yamagata/IMG_0834.JPG)
本丸一文字門
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大手橋の復原
大手橋は木橋で、その材質については、発掘調査によって出土した遺物を樹種鑑定して決定しました。橋脚の位置も、発掘調査の結果に基づいて決定しているため、橋脚の間隔は、2.1~2.8mとバラつきがあります。
~ パンフレット引用 ~
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![大手橋側面図](010_yamagata/ichimonnji.jpg)
大手橋側面図
(「史跡山形城跡本丸一文字門」より)
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高麗門の復原
高麗門は、江戸時代に流行した城門で、鏡柱と冠木を覆う小さな切妻造りの屋根と、鏡柱を支える控柱にもそれぞれ小さな屋根が架けられており、扉が閉じた状態でも開いた状態でも屋根の下に納まる構造となっています。
復原にあたっては、先に復原した二ノ丸東大手門の高麗門に準じた形状ですが、本丸一文字門の高麗門の方が、若干間口が狭い造りとなっています。また、耐久性と品質を重視して、鏡柱、控柱、冠木及び建具などに、厳選した国産の桧材を採用し、白太(白アリ食害や腐植の原因となる辺材)を含まない、丸太中心部の赤身と呼ばれる心材を使用しています。
~ パンフレット引用 ~
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![高麗門立面図](010_yamagata/kourai.jpg)
高麗門立面図
(「史跡山形城跡本丸一文字門」より)
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最上義光公勇戦の像
慶長5年(西歴1600年)の秋9月、怒涛の如く攻め寄せた上杉方の謀将直江山城守のひきいる二万三千余の大軍をむかえ、自ら陣頭に立って指揮奮戦し敵を撃退してよく山形を死守した山形城主最上義光が決戦場富神山にむかって進撃せんとする英姿で鎧兜は時代考証にとらわれず表現したものであります。
右手にかざして持っているのは鉄の指揮棒で清和天皇末葉山形出羽守有髮僧義光と刻んであります。
銅像をとりまく縁石は山形城三の丸をかたどったものであります。
最上義光公頸彰会
~ 現地案内板引用 ~
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![最上義光公勇戦の像の写真](010_yamagata/IMG_0844.JPG)
最上義光公勇戦の像
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二ノ丸東大手門
櫓門・多門櫓・高麗門・土塀を備えた山形城二ノ丸の正面を史実に従い、日本古来の建築様式により木造建で平成3年(1991)に復原。
山形城の二ノ丸の大手(正面)にあたるのが「二ノ丸東大手門」です。枡形と呼ばれる広場を中心に、櫓門や続櫓、高麗門及び土塀で構成された枡形門と呼ばれる形式で、本丸一文字門も同様の構造になっています。
山形城は本丸及び二ノ丸が城郭の中心部となっていたため、軍事的な機能だけでなく、藩主の威厳を示す役割も有していました。復原にあたっては、最も史料が残る、江戸時代中期(堀田氏時代)の姿で復原しました。
~ パンフレット引用 ~
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![二ノ丸東大手門の写真](010_yamagata/IMG_0849.JPG)
二ノ丸東大手門
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![パンフレットの写真](010_yamagata/IMG_20210624_135439.jpg)
パンフレット
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