嵐山町ぶらり旅
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稲荷塚古墳の写真  稲荷塚古墳 

 かつて、この古墳の上に稲荷社が祀られていたことから「稲荷塚古墳」呼ばれています。
 古墳時代後期(7世紀後半)の築造と推定される円墳です。墳丘の規模は約20メートル、現存する高さは約3.5メートルです。主体部は古くから開口していて、副葬品などは失われています。
稲荷塚古墳の写真  稲荷塚古墳

 緑泥片岩の割石を積み上げた横穴式石室で、羨道部・前室・玄室によって構成されています。羨道部は完全に破壊され現存していません。この付近にはかつて百を超える小円墳があったと言われていますが、現在ではこの古墳を含めて数基を残すのみとなってしまいました。
菅谷館跡の写真  菅谷館跡

 菅谷館跡は、関東の有力豪族の畠山氏の館に起源をもつ中世の重要な遺跡です。
菅谷館跡 畠山重忠像の写真  菅谷館跡 畠山重忠像 

 元久2年(1205)武蔵二俣川の合戦の際、畠山重忠は「菅谷館」から出発したと鎌倉幕府の記録である「吾妻鏡」に書かれています。

菅谷館跡の写真  菅谷館跡

 室町時代の漢詩文集「梅花無尽蔵」によると長享2年(1488)に山内、扇谷の両上杉氏がこの須賀谷原で戦い、戦死者700人、馬は数百頭が倒れたと記されています。館付近の戦いの激しさを伝えています。
菅谷館跡の写真  菅谷館跡

 現在の遺構は、本郭(ほんぐるわ)・二の郭・三の郭などと、それらを防衛する土塁、空堀などからなっていて、このような姿になったのは戦国時代のことと考えられています。
 本郭は空堀と高い土塁により守られていますが、さらに土塁には出桝形(凸状に突き出た箇所)が作られ、敵軍の侵入を効果的に防いでいます。【出桝形土塁(でますがたどるい)】
二瀬の写真  二瀬 (ふたせ)

 二瀬橋から。右は槻川、左が都幾川。
 瀬とは流れの急な所をいいます。ここで槻川と都幾川が合流するところで、どちらも瀬となっています。
 ここより下流は都幾川と呼び、やがて越辺川(おっぺがわ)、入間川、荒川と合流し、東京に入って隅田川になります。
嵐山渓谷の写真  嵐山渓谷

 槻川橋から上流の眺めが武蔵嵐山です。
 昭和3年に本多静六(全国各地の公園の設計を手がけました。)がこの地を訪れ、京都の嵐山に似ていることから武蔵嵐山と名付けました。町政施行の時に町の名前となりました。
嵐山渓谷の写真  嵐山渓谷

 新緑、紅葉が楽しめるほか、バーベキュー場もあり、多くの人で賑わいます。
旧日本赤十字社埼玉県支部社屋の写真  旧日本赤十字社埼玉県支部社屋
 旧日本赤十字社埼玉県支部社屋はもとは浦和市内(現さいたま市)の県庁北側にあったものを嵐山町鎌形小学校内に移築したものです。
 この社屋は明治38年に建てられ、正面と左右の棟に見られる妻飾りは、18世紀から19世紀中頃のヨーロッパ古典主義技法の中で流行したピクチュアレスク(絵画的奇抜なデザイン)を模倣したものです。
 きわだったデザインと独創性をもった貴重な明治風建物です。

 構造:木造平屋建、下見板張、基礎煉瓦積瓦葺、延べ面積530.6平方メートル。(162坪)
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