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2017年5月3日 (水) 100名城めぐり ( 足利氏館・金山城 )


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  足利氏館・足利学校・呑龍様(大光院)・金山城  
 
  2017年5月3日、ゴールデンウィークを利用して、栃木県と群馬県のお城めぐりをしました。
 埼玉県大宮駅からJR宇都宮線で久喜駅まで行き、東武伊勢崎線舘林行に乗り継ぎ舘林駅。再び、乗り継ぎ、東武伊勢崎線太田行で足利市駅まで行きました。足利市には、東武鉄道の駅とJR両毛線足利駅がありますが、宇都宮線を利用しているので、小山駅まで行かなければ両毛線に乗れません。本数も少なく、遠回りになるため、東武鉄道を利用しました。
 足利市駅から足利氏館【鑁阿寺(ばんなじ)】までは約1km15分程度です。
 足利氏館は足利義兼によって築かれたといわれ、館内に持仏堂を建立したのが、鑁阿寺の始まりです。スタンプ設置場所も鑁阿寺本堂内寺務所です。
 鑁阿寺でスタンプを押し見学したのち、近くの足利学校に向かいました。

 
   足利学校の歴史
 足利学校の創建については、奈良時代の国学の遣制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがありますが、歴史が明らかになるのは、上杉憲実(室町時代)が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、庠主(学長)制度を設けるなどして学校を再興したことからです。
 鎌倉建長寺住持の玉隠永璵は、長享元年(1487)の詩文の中で「足利の学校には諸国から 学徒が集まり学問に励み、それに感化されて野山に働く人々も漢詩を口ずさみつつ仕事にいそしみ、足利はまことに風雅の一都会である」と賛美しております。
 また天文18年(1549)にはフランシスコ=ザビエルにより「日本国中最も大いにして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され「学徒三千」といわれるほどになりました。
 江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終え、明治5年幕をおろしましたが、足利学校の精神は現在に引き継がれています。
 昭和57年より「史跡足利学校保存整備事業」を実施し、平成2年江戸中期の姿に甦りました。
 ~ パンフレット引用 ~


足利学校の写真
足利学校入徳の門
入徳の額の写真
入徳の額  
    入徳門
 入徳の額は、天保11年(1840)に掲げられたものです。現在の建物は裏門を移築したものといわれています。
 ~ パンフレット引用 ~


  学校門の写真
学校門
学校の額の写真
学校の額

  学校門

 日本で唯一の「学校」の額がかけられた門です。寛文8年(1668)に建てられ、足利学校のシンボルとして江戸時代から今日まで受け継がれてきました。「学校」という言葉は、儒学の教科書の一つである「孟子」の中にある言葉です。扁額「学校」は明の書家蒋竜渓の書を江戸国史舘助教授の狛高庸が縮小したものです。
 ~ 現地案内板引用 ~


  字降松(かなふりまつ)

 足利学校の第七世庠主(校長)九華和尚のころのことです。学生が読めない文字に出合ったとき、紙に書いてこれを廟前の松の枝につけておくと和尚がみて、ふり仮名や注釈をつけてくれたので、字降松と呼ぶようになりました。当時学問を志して、足利学校に学んだ学生と庠主との交流が偲ばれ、心温まる足利学校の伝説です 
 ~ 現地案内板引用 ~
  字降松の写真
字降松(かなふりのまつ)


杏壇門の写真
杏壇門
杏壇の額の写真
杏壇の額
    杏壇門
 寛文8年(1668)の創建。明治25年(1892)に、町の大火の飛び火により屋根門扉が焼け、同30年代に再建したものです。杏壇とは、孔子が弟子たちを教えたところに、杏の木が植えられていたことに由来しています。
 ~ パンフレット引用 ~

 
 
  孔子廟(聖廟)

 孔子廟(聖廟)は、儒学の祖の孔子を祀る廟です。大成殿と杏檀門・築地塀からなります。
 大成殿は、寛文8年(1668)の建造で、正面5間、側面6間、屋根は寄棟造で本瓦葺、周囲に裳階と呼ぶ庇を付けています。
 正面には、孔子坐像、右側には小野篁坐像を安置しています。杏檀門は、明治25年近隣の火災で焼失しましたが、 明治33年に再建されました。毎年11月23日には、この聖廟で、孔子とその高弟を祀る釋奠が行われます。
 ~ 現地案内板引用 ~
 
  孔子廟の写真
孔子廟

 
  孔子坐像の写真
孔子坐像
 木造 孔子坐像
 室町時代 天文4年(1535)
 県指定文化財 
 寄木造 玉眼嵌入
 像高 78センチメートル
 頭巾をかぶり儒服を着けた像で、この姿は「行教像」といわれます。像の内側に墨書きがあり、当時の足利庄代官・長尾憲長(1503~1550)など造像に関わった人の名や、学校の様子が記されています。日本最古の孔子の彫像として大変貴重です。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
 
方丈の写真
 
   方丈
 学生の講義や学習、学校行事や接客のための座敷として使用されたところです。
 
  裏門の写真
裏門
  裏門
 足利学校の門はいくつかありますが、正門は学校門で日常使う門が、この裏門でした。間口が八尺の薬医門で、屋根が切妻造の茅葺です。両脇に目板瓦葺の屋根をかけた袖塀が付いています。発掘調査によって、砂利敷きの通路が門から主屋の玄関や脇玄関へと延びている様子が分かりました。(宝暦年間の姿に復原)
 ~ 現地案内板引用 ~

 
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   金山城を目指す
 足利学校を見学した後、足利市駅から東武伊勢崎線太田行で太田駅まで出る。足利市駅から太田駅までは3駅、約10分。乗ればあっという間に着く距離です。でも、栃木県から群馬県への移動です。
 太田駅北口から県道2号線(日光例幣使街道)、県道321号(金山城跡線)で約5km、徒歩1時間10分程度で金山城に着く予定だが、途中大光院、金山城跡ガイダンス施設に寄りながら、ゆっくり向かうことにする。
 
  新田義貞公の銅像の写真
太田駅北口前の新田義貞公銅像
 
   新田義貞公は清和源氏新田氏直系の郷土出身の武将である。
 元弘3年(1333)5月8日卯刻 生品明神の社前に義旗を挙げ坂東諸国・越後・信濃・甲斐の源氏を糾合して鎌倉を攻め同月22日 執権北条高時の鎌倉幕府を滅ぼした。この功により建武新政が成り後醍醐天皇より越後守・播磨守・上野介に任じられ武者所頭人・左近衛中将となる。その後、北条時行の乱を契機に南北朝の戦乱が起こり義貞公は南朝方の忠臣として各地に転戦した。
 延元元年(1336)吉野に移った後醍醐天皇は恒良親王・尊良親王と義貞公を越前に下らせて再起を図った。義貞公は越前平野を支配下に置いたが、南風競わず、延元3年(1338)閏7月2日越前藤島燈明寺畷で斯波高経の軍勢との遭遇戦において壮絶な最期を遂げた。御年38歳であった。
 御遺骸は福井県丸岡町の称念寺に葬られた。公の御霊は太田市新田神社、福井市藤島神社にまつられている。太田市金龍寺には供養塔と顕彰碑がある。
  昭和63年5月 新田義貞公銅像建設委員会
 ~ 現地案内板引用 ~


 
    大光院吉祥門
 「呑龍様」の名で親しまれている大光院は慶長18年(1613)徳川家康がその祖とした新田義重(源義家孫・新田氏祖)を追善するため創建したものである。寺名の義重山新田寺大光院は義重の法号「大光院殿方山西公大禅定門」による。寺領3百石、徳川幕府が定めた浄土宗の学問所関東十八檀林の1寺となる。
 初代住職には江戸芝増上寺の観智国師四哲の一人呑龍上人が迎えられた。呑龍は庶民教育に心をくだき、生活困窮者の子供を弟子の名目で養育、その高徳により、「子育て呑龍」として信仰を今に集めている。
 吉祥門は元和元年(1615)に中門として建立されたと伝えられている。名前の由来について次のような言い伝えがある。この山門が上棟された日に大阪城が落城し、徳川方にとってめでたく記念すべきことであったので、徳川家康により吉祥門と名付けられたという。
 吉祥門は間口3間、奥行1間の切り妻造り、桟瓦葺である。比較的簡素にできているが、瓦の葺き替え、袖垣の修理のほかはほとんど当時のまま保存され古式をよく残している。大光院創建期の姿を伝えられているといわれる本堂内陣・大方丈・小方丈・庫裡とともに、本市における数少ない近世初頭の建築物として重要なものである。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  大光院吉祥門の写真
大光院吉祥門
 
 
  慈愛の鐘

 当義重山大光院新田寺は慶長18年徳川家康公によって建立された関東十八檀林随一の寺で、この梵鐘は明治42年鋳造されたが、太平洋戦争で供出されたままであった。
 昭和31年呑龍上人生誕400年を記念して、当山68世大誉霊海師の発願によって再鋳造されたもので
 総重量 850貫
 口径  4尺3寸
越中高岡在住の鋳匠
 香取正彦氏(人間国宝)
 老子治右エ門氏
の製作により、昭和33年10月に完成落慶を見たもので、その名の通り汎く衆生に慈愛の徳を賜わるものである。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  慈愛の鐘の写真
慈愛の鐘

 
  開山堂の写真
開山堂


  開山堂
 13間4面鉄筋コンクリート造り桃山風建築にして昭和8年67世實譽上人代に落成せるもの。正面壇上に開基子育吞龍上人御自作の尊像を安置す。
 御開帳日は毎月1日・8日・15日
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  本堂の写真
本堂


  本堂
 慶長18年開創以来の建築にして大正14年に大改修を加えしもの中央須弥壇上に安阿弥快慶作の本尊阿弥陀仏を安置し、脇壇には新田義重公・徳川家康公。秀忠公・家光公・歴代上人の像を祀る。正面新田寺の大額は尊超法親王の御染筆によるものである。
 ~ 現地案内板引用 ~



 
  金山城跡ガイダンス施設の写真
 金山城跡ガイダンス施設

 
    史跡金山城跡ガイダンス施設
 太田のシンボルである金山を広く伝えることを目的に開館した施設。館内には金山城跡についてのデータベースやジオラマ、戦国時代の様子を上映する大スクリーンなど無料で見学することができます。地域交流センター側ではコミュニティルームやギャラリーも開放していて、金山の魅力を訪れた人に伝えています。
利用時間 : 9:00から17:00 (入館は16:30まで)
休館日 : 月曜日 (休日の場合は翌日)
     年末年始 (12/29~1/3)
料金 : 無料
 ~ パンフレット引用 ~
 
 


 金山城跡ガイダンス施設から金山城跡までは登り坂、車も通るので注意しながら登っていく。
  無事、金山城跡を見学。
 帰りは下り坂なので、少しは楽だが、結構きつい坂だった。

 ぶらぶらと下り坂をおり、途中で群馬名物の焼きまんじゅうとラムネでスタミナ回復。
 太田駅から帰路についた。
 
 
  太田やきそばの写真
太田名物の太田やきそば
(本日の昼食)

焼きまんじゅうとラムネの写真
焼きまんじゅうとラムネ
(帰路の途中で休憩)


 
  パンフレットの写真
パンフレット&入場券


 
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くつ

1日の歩数
28,739歩
18.68km


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