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017 金山城

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   金山城  
 
 場所 : 群馬県太田市 (Googleマップ)

 築城年代 : 文明元年(1469)
 築城者 : 岩松家純
 主要城主 : 岩松氏、由良氏、小田原北条氏
 スタンプ設置 : 中島記念公園(史跡金山城跡・南曲輪)休憩施設内

 

金山城の地図
 
  金山城跡

 金山城が新田一族の岩松家純によって築城されたのが文明元年(1469)。それ以後、由良氏、北条氏など城主は時代によって変わっていきました。
 永禄年間に城主となった由良氏は戦国大名に地位を得て最盛期には新田・桐生・館林・足利などを手中に収め、隆盛を極めたとされています。この間に、武田・上杉といった戦国武将と攻防を繰り返しましたが、金山城は落とされることなく難攻不落の名城といわれました。
 金山城は、金山の尾根を中心に利用した山城で、それゆえ守りは非常に堅固なものでした。虎口や石垣は迷路のように入り組んでいて、攻め入る敵兵を陥れるのに最適な造りでした。
 現在は復元作業が行われ、往時の様子を偲ぶことができます。
 ~ パンフレット引用 ~

 
 
 分裂していた岩松氏を統一し、新田荘の支配者となった岩松家純。重臣の横瀬国繁に命じてこの地に城を築かせ、新たな軍事拠点としました。

 岩松家純の没後、主君岩松氏を排して金山城主となった横瀬氏(由良氏)により、領域支配のための本拠として金山城は拡大し整理されていきます。


 金山城のある新田領は、戦国時代の後半から上杉氏が北条氏・武田氏といった有力戦国大名の迫間で、金山城はときに戦渦に巻き込まれながらも、由良氏の巧みな外交戦略で動乱の中を生き抜きました。


 戦国時代の末期、由良氏が城を北条氏へ明け渡すという事態におちいりました。

 その後、天正18年(1590)には、豊臣秀吉勢の小田原攻めにより破れた北条氏とともに金山城は廃城になりました。

 元禄元年(1688)により金山は御林として徳川幕府の直轄地となりました。その御林は松茸を産し、幕府への献上松茸の産地として保護され、新たな時代を迎えることになりました。
 ~ パンフレット引用 

 
  西矢倉台下堀切の写真
西矢倉台下堀切
 
 
西矢倉台西堀切の写真
西矢倉台西堀切
 
    西矢倉台西堀切
 西矢倉台西堀切は、西城から実城(本丸)までの間にある4つの堀切のうち、一番西寄りにある堀切です。この堀切は他と異なり、堀底に石を敷いて通路として使用しており、通路の先は桟道(急斜面に沿って掛けられる通路)へと続いています。また、通路の北側には柱穴(柱を支えるために掘られた穴)があり、敵兵の北側からの侵入を防ぐための柵があったと考えられます。
 堀切の西脇には、堀切を掘り下げる際に出た土や石を土塁状に盛り上げ、堀切内を敵兵から「隠す」ための工夫がなされていたようです。また、この土塁状の高まりの下から通路の縁石が見つかり、堀切内の通路よりも古い通路があったことがわかりました。古い時期には、桟道から西へ通路が延びていたようです。
 ~ 現地案内板引用 ~


 
馬場下通路の写真  馬場下通路の写真
馬場下通路
 
  馬場下通路

 物見台下土橋から竪堀までの間には石敷きの通路が発見されました。この通路は防御上、土橋から見通せないように曲がった通路となっています。通路は、竪堀にかかる木橋方向と堀底へ下りる階段へ分岐しています。
 石敷き通路の南側には、谷側からの敵に備えて通路を隠すと共に、敵を威圧するための土塁石垣が通路に沿って約22m設けられていました。
 なお、土塁石垣の中央部は、石垣の崩れた状態で整備されています。
 ~ 現地案内板引用 ~
 
  木橋の写真
木橋
 
  馬場通路の写真
正面 物見台
 
    馬場通路・石塁
 物見台から東の北側斜面際では、物見台基壇と一体となって造られた幅約1.2mの石塁が約72mの長さで発見されました。この石塁は、北の長手口からの攻撃に備える防御上の効果があったと考えられます。さらに、長手口から、北側の岩盤を険しく見せるための視覚的効果を意識して、この石塁の上に築地塀が造られていたと考えられます。しかし、調査では上部の崩落が著しく、塀の痕跡は発見されませんでした。
 物見台から東の南側斜面際では、石敷きされた通路が発見されました。この通路は、物見台と東側に位置する馬場曲輪を結ぶと共に、途中で南下にある馬場下通路へと分岐しています。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  物見台から望む写真
物見台から望む
 
    物見台
 物見台の基壇は、自然の地形に沿って等脚台形に造られており、基壇中央から物見矢倉と考えられる柱穴が4本発見されています。また、物見台基壇からは釘や火縄銃の弾丸が出土しています。
 この物見台からは、金山城の周囲がよく見渡せるため、敵(上杉謙信:天正2年)は、物見台から死角となる藤阿久へ陣を構えました。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  月ノ池の写真
月ノ池
 
    月ノ池
 発掘調査前の月ノ池は、汚泥が堆積する窪地状の池でしたが、調査の結果、月ノ池も日ノ池と同様に上下二段の石垣で囲まれた戦国時代の池だったことが明らかになりました。
 下段の石垣は、石敷き平坦面から約2m下に積まれており、その内側から加工された建築部材や石垣の石が多量に投げ込まれた状況が見つかりました。なお、この石垣については、最上部以外、戦国時代の石垣をそのまま残して整備しました。
 月ノ池の底は、粘土層になっており、谷斜面からの表流水や浸透水が溜まるようになっていたことがわかりました。また、月ノ池は、池の石垣が一段しかなかった時期があったこともわかりました。月ノ池は谷地形を利用して造られているため、一段の石垣だけでは集中豪雨時に水があふれたと考えられます。そのため、水があふれないように、かつ水をより多く蓄えられるように、池の中心を東に移動させ上下二段の石垣に改修したものと考えられます。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  大手虎口の写真
大手虎口
 
    大手虎口
 虎口は、城や城内の各曲輪への出入口部を指し、「小口」とも書かれます。敵の侵攻から城を守る重要な場所であり、門・柵・塀・土塁・石垣などで厳重に守られています。また一方、虎口の「構え」は「格の高さ」を示す空間ともなっています。
 金山城跡にも数多くの虎口がありますが、なかでもこの大手虎口は、一大防御拠点として、また「城の格」を示す象徴的な場所として、最も重要な虎口と言えます。大手虎口は谷地形を利用して築かれ、月ノ池脇から正面土塁までの大規模な「構え」となっていました。月ノ池脇の門から続く緩やかに曲げた大手通路、それを守るため見下ろすように両側に配した壇状の曲輪とそこを守り場とした兵達の各種建物、大手通路の行く手をふさぐように築かれた正面土塁、横矢を射るために築かれた壇状の土塁などがありました。このような大規模で複雑な虎口の構造は、全国的にも特徴的であり、「難攻不落」を誇った金山城を象徴する場所の一つと言えましょう。
 また、通路脇や曲輪内を走る石組み水路は、城の維持のために効果的に排水を行う往時の工夫であったと考えられます。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  大手虎口南上段曲輪と遺構展示施設の写真
大手虎口南上段曲輪と遺構展示施設
 
    大手虎口南上段曲輪
 大手虎口南上段曲輪からは、石敷きされた建物の基礎やカマド、井戸址が見つかりました。大手虎口を守った兵たちの、生活の匂いが感じられる曲輪です。
 建物は、基礎が石敷きされており、この石敷き基礎には、幅約25~30cmの溝が碁盤の目のように見られました。これは、建物の柱や床板を支えるための「大曳き」や「根太木」などを置く溝で、建物の基礎が石敷きされているのは、湿気を防ぐためだったと考えられます。建物の東脇からはカマドが見つかり、建物から火気を遠ざけていたと思われます。このことから、建物は火薬などを備蓄した「武器庫」を兼ねた「兵の詰め所」だったと考えられます。整備では、石敷きされた基礎の一部が見学できるように、「遺構展示施設」として建物を造りました。
 井戸址には、一辺約1.5m、深さ約3mで石組みされていました。石組みの下部には、マツ材でできた井戸枠がそのまま残っています。
 また、大手虎口南上段曲輪の石敷き建物址の西脇は、古い時期に通路であったこともわかりました。この古い時期の通路は、スロープ状に北から南へ上がっていました。しかし、最終的には埋め戻され、通路開口部は石垣によってふさがれていました。
 ~ 現地案内板引用 ~


 
  遺構展示施設の写真
遺構展示施設
遺構展示施設内のカマドの写真
施設内のカマド
 
 

日ノ池の写真
日ノ池
 
    日ノ池
 日ノ池は、15m×16.5mのほぼ円形の池です。発掘調査によって、石垣が石敷、2箇所の井戸、石階段などが発見されました。さらに石敷の下からは、日ノ池へ通じる通路跡が改修工事が行われた跡、また、谷をせき止め、斜面からの流水や湧き水を貯める構造になっていることも分かりました。これらの調査の結果をもとに、往時の姿を可能な限り再現しています。石垣や石敷はできる限り当時のままで残しました。
 日ノ池は、山の上では希な大池であり、金山城における象徴的な場所の一つです。ここは、単に生活用水を確保した場所ではなく、戦勝や雨乞いなどの祈願を行った儀式の場所であったと考えられます。
 また、水の信仰とかかわる平安時代の遺物も発見されており、日ノ池が立地する場所は、築城以前から神聖な場所であったようです。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  金山城碑の写真
日本百名城 金山城

 
  金山の大ケヤキの写真
大ケヤキ
 
    金山の大ケヤキ
  (太田市指定天然記念物)
  指定年月日 : 平成21年5月20日
 ケヤキは、落葉高木で東アジアの一部と日本に分布します。日本では本州・四国・九州に分布、暖地では丘陵部~山地、寒冷地では平地まで自生し、高さ20~25mの大木となります。
 本樹木は金山山頂にある、樹高17 m、目通り周6.79mの大ケヤキです。樹高はそれほど高くはありませんが、目通り周においては県内でも上位に位置し、枝張りも40mを超えます。金山山頂の金山城実城域にあり、推定樹齢800年ほどとも伝えられる大木で、金山のシンボル的存在です。樹勢が良好で、まとまった幹を持っており樹形も大変趣があります。また神社の参道脇にあることから御神木と同様の扱いを受けていたと思われます。
 昭和初期までケヤキの大木は7本あったといわれていますが、現在は1本のみです。推定樹齢800年ほどであるとすれば、金山城の興亡を見てきた歴史の証人ともいえます。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  金山神社の写真
金山神社
 
    新田義貞公と新田神社
 新田義貞は、群馬が誇る武将の一人。「いざ鎌倉」の号令で倒幕の挙兵をしたことはあまりにも有名です。進軍してからわずか15日後、鎌倉幕府滅亡を果たします。しかし、その後朝廷が南北に分裂し、南朝方の義貞は北朝方の足利尊氏らとの激戦に敗れ最後を迎えました。義貞を祀るため明治8年(1875)には金山城本丸跡に新田神社が建てられました。
 ~ パンフレット引用 ~


 
  金山神社と金山城址の碑の写真
金山神社と金山城址

金山城本丸址の碑の写真
金山城本丸址

 
    金山城主系図
新田義重 ー 義兼 ー 義房 ー 政義 ー 政氏 ー 基氏 ー 朝氏 ー 義貞 ー 義宗 ー (岩松)満純
ー (新田)家純 ー 明純 ー 尚純 ー ※  ※①【尚純 ー昌純】 ※②【尚純 ー 氏純 ー 守純】
(横瀬)国繁 ー 業繁 ー 景繁 ー 泰繁 ー (由良)成繁 ー 国繁

 
  南木戸残存石垣の写真
南木戸残存石垣
 
    本城南端
 金山城は北面に急峻、南面は緩傾斜しているので特に郭を幾段にも築き敵の侵入を防いでいる。
 この帯状の郭を腰郭といい火線を数段に備える。
 ~ 現地案内板引用 ~
 
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金山城のスタンプ
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金山城への旅

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