「みつかる君 100名城めぐり」タイトル画像
2017年5月19日(金) 100名城めぐり ( 箕輪城 )


ホーム


100名城


スタンプ


 旅行日程



リンクの画像


熟語一発検索
みつかる君




みつかる君と行く
時空の旅


  箕輪城・高崎城  
 
高崎駅前の写真
高崎駅西口
 
 
 2017年5月19日、金曜日。群馬県高崎市の箕輪城に行く。高崎駅に10時40分頃到着。箕輪城は高崎駅から北に約11Km離れているので、往路はバスに乗ることにした。高崎駅西口のバス停を10時55分発の群馬バス、伊香保温泉行(箕郷経由)に乗り、四ッ谷バス停に11時22分到着した。
 四ッ谷バス停から高崎市箕郷支所までは300mほど。箕輪城のスタンプは、高崎市箕郷支所の窓口で押させてもらえる。城跡ではないので注意が必要だ。支所の中でスタンプを無事ゲット。
 箕郷支所から箕輪城までは約1.6Kmの緩やかな登り。30分程度で着く。城跡内をゆっくり散策。
 
高崎市箕郷支所の写真
高崎市箕郷支所
(箕輪城のスタンプ設置所)

 登城後、バス停で時刻表を確認すると調度良い時間のバスがない。高崎駅までは約11Kmあるが、緩やかな下り坂だし、歩くことは元来嫌いではないので、迷わず歩くことにする。

 【ルート】 箕輪城~箕輪小学校前~県道26号~まねきの湯前~県道28号~高崎浜川郵便局前~高崎警察署前~すずらん(デパート)~高崎城~高崎駅

 途中、高崎城を見学。高崎城から高崎駅までは1Kmほど、ゆっくり歩いても15分で着く。
 高崎駅から各駅停車の高崎線で帰った。


  高崎城の地図
高崎城の地図

  高崎城址の写真
高崎城址

    高崎城の由来
 高崎城は徳川四天王の一人である井伊直政によって築かれました。天正18年(1590)に箕輪城(高崎市箕郷町)12万石に配置され直政は、新しい徳川体制に相応する場所に居城を移すため、慶長3年(1598)に所領であった西毛地方の中からこの地を選び、地名を和田から高崎と改め、城の名称も高崎城と名付けました。
 井伊直正は2年後に佐和山城(滋賀県彦根市)18万石へ転封になってしまい、その後、高崎城主は短い期間で交代したため築城工事は中断されていましたが、安藤重博が工事を再開し元禄5年(1692)に完成しました。
 城郭は、烏川の深い淵と高い崖という天然の要害を背に、前面に開けた広大な平地を活用して縄張りが行なわれ、本丸、二ノ丸、三ノ丸を土居と堀で囲んだ輪郭梯格式の平城です。
 本丸の土居の上には天守に相当する御三階櫓と二層の隅櫓が4基設けられ、約5万1600坪の広さは10万石格の城郭と言えます。城内の3分の2を三ノ丸が占めていること、一番外側の三ノ丸堀と土居が矩形で直線的であること、その堀と土塁に凸型の防衛施設である出枡が設けられていることなどがこの城の特徴です。
 明治時代に入ると陸軍省の管轄となり、場内は第15連隊の兵営として殆どの施設は取り壊されてしまいました。しかし、三ノ丸の土居と堀は、ほぼ昔のままの姿で残り、その他の遺構として乾櫓と御殿表御門(いずれも音楽センター東に復元移築)があります。
 ~ 現地案内板引用 ~


高崎城乾櫓の写真
高崎城乾櫓

  高崎城乾櫓の由来
 この櫓は高崎城本丸乾(西北)の土囲上にあった。南に建つ三重の天守閣(御櫓と呼ぶ)と並んで、本丸堀の水に影を投じた姿がしのばれる。
 高崎藩に伝えられた「高崎城大意」という書物によれば「もとこの櫓こけらふきにて櫓作りになし二階もなく土蔵などの如くなるを先の城主腰屋根をつけ櫓に取り立て」とある。先の城主安藤重博が今のように改築したとある。従って、重博在城の元禄8年(1695)より以前から存在したことが明らかである。多分、安藤重長が城主であった寛永の頃の建築であろう。城郭建築物の本県内に現存するものはこの櫓只一つである。
 幸いにこれが保存されていたのは、明治初年に払い下げられ下小鳥町の梅山氏方に移り、納屋に用いられていたからである。所有者の梅山太平氏が市に寄附の意を表され、県の指定文化財となったのは昭和49年で以来2年を経て漸くこの位置に復元することができた。元位置はここから西方300mの地点に当る。
 屋根の「しゃちほこ」は栗崎町の五十嵐重五郎氏宅に現存するもと高崎城のものを模造したものである。
 また塀は金古町の天田義英氏宅にある高崎城から移した塀にならって作り、瓦は大部分を下滝町の天田季近氏方に保存されていた高崎城のものを寄附されたものである。
 高崎城には石垣はほとんどなかった。この石垣は土囲敷が広面積を占めないよう止むを得づ築いたもので、乾櫓には土囲上に1m足らずの高石台があったに過ぎない。
 ~ 現地案内板引用 ~

  高崎城東門の写真
高崎城東門
  高崎城東門の由来
 高崎城16の城門中、本丸門(萑門)刎橋門、東門は平屋門であった。そのうちくぐり戸がついていたのは東門だけで通用門として使われていた。
 この門は寛政10年正月(1798)と天保14年12月(1843)の2度、火災により焼失し、現在のように建て直されたものと考えられている。くぐり戸は乗篭が通れるようになっている。門は築城当初のものよりかなり低くなっており、乗馬のまでは通れなくなっている。この門は明治のはじめ、当時名主であった梅山氏方に払い下げられ、市内下小鳥町の梅山大作氏方の門となっていた。
 高崎和田ライオンズクラブは創立10周年記念事業としてこれを梅山氏よりゆずりうけ復元移築し、昭和55年2月、市に寄贈したものである。
 ~ 現地案内板引用 ~


上に移動する
くつ
1日の歩数

27,834歩
18.09km


Copyright © mitukarukunn All Rights Reserved.