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016 箕輪城

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   箕輪城  
 
 場所 : 群馬県高崎市 (Googleマップ)
 築城年代 : 15世紀後半~16世紀前半頃

       永禄10年(1567)、天正15年(1587)、天正18年(1590)
 築城者 : 長野業尚、武田信玄、北条氏邦、井伊直政
 主要城主 : 長野氏、武田氏、後北条氏、徳川氏
 スタンプ設置 : 箕郷支所受付

 

箕輪城の地図
 
  箕輪城の歴史

 西暦1500年前後に長野氏が築城しました。後の系図によると、業尚(なりひさ)、憲業(のりなり)、業政(なりまさ)、業盛(なりもり)の四代が箕輪城を本拠にしていたと考えられています。ただし、近年の研究では、方業(まさなり)→業正(業政)→氏業(うじなり)と変遷したことが指摘されています。また、業尚や憲業は鷹留城(高崎市下室田町)を築城した長野氏の一族ではないかという指摘もなされています。
 長野氏は武田氏の西上野侵攻に際して、この箕輪城を本拠にして最後まで抵抗しましたが、元禄9年(1566)に難攻不落だった箕輪城もついに武田信玄に落とされました。
 その後は、武田氏、織田氏、北条氏、徳川氏と次々と主が変わりましたが、その度に各大名の有力家臣が配置されています。特に最後の城主井伊直政は徳川家康の家臣の中では最大石高の12万石で封じられています。その8年後の慶長3年(1598)、井伊直政は城を高崎に移し、箕輪城は廃城になりました。
 ~ パンフレット引用 ~
 
  郭馬出西虎口門の写真
郭馬出西虎口門

 
  郭馬出西虎口門裏側からの写真
郭馬出西虎口門裏側
郭馬出西虎口門内部の写真
郭馬出西虎口門内部
 
 
  郭馬出西虎口門

 2002年度の発掘調査によって、郭馬出西側の出入口(虎口)部分で井伊氏の時代(16世紀末)の城門の柱の礎石が8石確認されました。
 この虎口は本丸への登城ルートのうち、城南側からの2ルートが集約される防御上極めて重要な場所となっています。そのため、検出された箕輪城の城門の中では最大規模(幅5.73m、奥行3.48m)を誇り、箕輪城を象徴する城門の一つであったと想定されます。
 礎石の配置等から2階建ての櫓門と推定されますが、近世城郭で一般的となる瓦葺きではなく、板葺きであることが、中世から近世への過渡期の特徴を示しています。
 礎石がすべて残っていた好条件に加えて、さらに各地に現存している近世初期の城門を参考にすることによって、門の建物構造が推定できました。2011年度からの文化庁の専門委員会での審議を経て、2014年度から2ヵ年かけて、伝統的工法に基づき復元工事を行いました。
 なお、この門は、関ヶ原の戦い(1600)以前の城郭で復元された城門の中では、全国最大規模になります。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  木俣の写真
木俣
 
    木俣の発掘調査
 ここは木俣と呼ばれる曲輪で、家臣団の屋敷地の一つと思われます。2003年度の発掘調査で以下のことが分かりました。
① 木俣外周を南北方向に囲う2本の堀は、元々さらに北西へ続いていましたが、郭馬出西虎口門が造られた頃に一部が埋められ、現在のような平地になったことが判明しました。
② 築城前、木俣と郭馬出は現在より高低差がありましたが、城の改修で造成され、現在の地形になったことが分かりました。
③ 等間隔(180cm)で柱穴の並ぶ箇所があり、少なくとも3棟の掘立柱建物があったことが明らかになりました。
 ~ 現地案内板引用 ~
 
  郭馬出の写真
郭馬出
 
 
  郭馬出

 郭馬出しは、50メートル×30メートル程の郭で、回りに土手を設け外部から見えない囲いの中に兵を結集し、土手の両側から一挙に打って出る所である。このような大形の馬出しを「郭馬出」という。
 高崎城の梅木郭は、この郭馬出しを手本としたものであろう。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  大堀切の土橋の写真
大堀切の土橋
大堀切の写真
大堀切
 
    大堀切の土橋
 大堀切を渡る唯一の土橋です。
 2001・2010年度の発掘調査の結果、数時期にわたり変遷が確認され、城最終時までに土橋の南西側の裾に石垣を築くなどの改修が行われ、廃城を迎えていることが明らかになりました。
  2014年度に城最終時の土橋の形状に復元しています。廃城後に削られた部分は盛土で復元して、発掘された石垣は地下に保存し、その上に、新たに石垣を復元しました。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  二の丸の写真
二の丸
 
    二の丸
  二の丸は縦横各80メートル程の郭で、本丸が持久防禦のための郭であるのに対し、これは出撃の拠点である。
 東は搦手口に、西は向川口、大手方面へ、南は大堀切土橋から木俣方面へと四方へ出撃できるようになっている。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  本丸門馬出しの写真
本丸門馬出し
 
     本丸門馬出し
 東から南に鍵形の土居のあった馬出しで、土居の北側から搦手へ、南側からは二の丸へ出撃する。
 本丸の南側の突き出している部分は、この馬出しの内外を側面から守るようにできている。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  箕輪城跡の写真
箕輪城跡

 
  箕輪城本丸の写真
本丸
 
 
  本丸

 本丸は御前曲輪とともに城の中心部であり、南北約100メートル、東西約70メートル、東側には高い土手を築いて城内が敵に見えないようにしてある。この土手が御前曲輪の東側まで続いていることにより、御前曲輪も本丸の一部であったと考えることができよう。
 本丸と御前曲輪の間の空堀は、東部が浅く西部が深く、西の空堀に降りる通路となっていた。空堀底は初期にはすべて交通壕であったが、後に掘り下げられてそのはたらきを失ったらしい。
 南の本丸の虎口(出入口)には前に「曲尺馬出し」がつき、本丸南部が突き出して虎口前を側面から防ぐようになっている。
 ~ 現地案内板引用 ~


 
  御前曲輪の写真  
    御前曲輪
 この郭は本質的には本丸の一部であったが、廃城の際に城主は持佛寺に入って自刃した。一族郎党みなあとを追ったと伝えられているように箕輪城の精神的中心であった。いわば天守郭か本丸の同一平面に設けられたとも考えられる所である。
 昭和2年に発見された井戸からは多数の五輪塔などの墓石が発見された。
 西南隅には櫓があったと思われ、堀内に石垣が残っている。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  御前曲輪西虎口門跡の写真
御前曲輪西虎口門跡
 
 
  御前曲輪西虎口門跡

 御前曲輪の出入口(虎口)です。御前曲輪西側の堀に架かっていた木橋を渡り、この虎口を出入りしました。
 2005年の発掘調査では、ここから間口・奥行ともに3.1mの門跡が確認されました。6つの礎石が全て残り、主柱2本を4本の控柱で支える四脚門と考えられます。
 門の雨落溝には156個の石塔の部材が用いられています。これらを整然と並べ格調高く整備された門です。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
    石垣
 大手門から、本丸へ上っていくルートにあたる虎韜門・鍛冶曲輪・三の丸・二の丸などには石垣が残っています。その他、郭馬出。御前曲輪西側の堀などにも石垣があります。発掘調査をすると、多くの場所で、埋まっていた石垣が発見され城の主要部のかなりの場所で石垣が使われていたと考えられます。これらの石垣は野面積みと呼ばれる加工をしない河原石を用いたもので、一人では運べない径1mほどの石も使われています。箕輪城内では石が取れないため、城のすぐ西を流れる榛名白川から運び上げたのでしょう。石垣が使われたのは、発掘調査などから主に城の最終時期と考えられますが、一部の石垣はさらにその前の時代まで遡ります。
 ~ パンフレット引用 ~
 
  三之丸門跡と石垣の写真
三の丸門跡と石垣
 
    三の丸の石垣
 城内では最も高い4.1mの石垣を確認しました。
 関東地方の城郭は江戸時代に入ると、江戸城など一部の城郭では4mを超えるような高石垣が用いられていますが、それ以前では豊臣秀吉が築いた石垣山城(神奈川県小田原市)など限られた城でしか確認されていません。箕輪城が北関東の要の城にふさわしい形で改修されことたことがこの石垣からうかがえます。
 ~ パンフレット引用 ~
 
  鍛冶曲輪の石垣の写真
鍛冶曲輪の石垣

 
  虎韜門跡の写真
虎韜門跡

 
  大堀切の写真 大堀切の写真  
大堀切
 
  大堀切の石垣

 大堀切は城を南北に二分する役割があり、現在、幅30m、深さ9mの規模を誇っています。2001年の発掘調査では堀底付近で大堀切に直交する石垣が検出されました。石垣の規模は上幅3.9m、下幅2.9m程度、高さ2.5m以上で、現地表面から約5m下が石垣の上端になることから、本来の大堀切は現在よりも7.5m以上深かったことになります。
 この石垣は敵の侵入に備える防御壁であり、併せて土砂の流出を押さえる砂防ダムの役割を果たしたとも考えられます。なお、電気探査の結果、この堀には他にも同様の石垣が数箇所に築かれていると推測されます。
 ~現地案内板引用 ~

 
  パンフレットの写真
パンフレット
 
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箕輪城のスタンプ
箕輪城のスタンプ


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