「みつかる君 100名城めぐり」タイトル画像  
081 松山城

ホーム


100名城


スタンプ


 旅行日程





リンクの画像


熟語一発検索
みつかる君




みつかる君と行く
時空の旅



   松山城  
 
 場所 : 愛媛県松山市 (Googleマップ)
 築城年代 : 慶長7年 (1602)
 築城者 : 加藤嘉明、蒲生忠知
 主要城主 : 加藤氏、蒲生氏、松平(久松)氏
 スタンプ設置 : 松山城天守入口

 

 松山城は、海抜132mの勝山山頂に本丸、中腹に二之丸、山麓に三之丸(堀の内)を置く連郭式平山城で、敵の侵入を防ぐため、二之丸を取り囲むように山麓から本丸にかけて、全国的にもめずらしい「登り石垣」が配されている。
 松山城の創設者は加藤嘉明である。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となった嘉明は、同7年に伊予正木(愛知県松前町)から道後平野の中央にある勝山に城郭を移すため、普請奉行に足立重信を命じて地割を行い、工事に着手した。翌8年(1603)10月に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山という名称が公にされた。
 その後も、工事は継続され、寛永4年(1627)になってようやく一応の完成をみた。当時の天守は五重で偉観を誇ったと伝えられている。しかし嘉明は松山にあること25年、完成直前の寛永4年(1627)2月に会津へ転封される。
 そのあとへ蒲生氏郷の孫忠知が出羽国(山形県)上の山城から入国し、二之丸の築造を完成したが、寛永11年8月参勤交代の途中、在城7年目に京都で病没し、嗣子がいないので断絶する。
 その後、寛永12年(1635)7月伊勢国(三重県)桑名城主松平定行が伊予松山15万石に封じられた。寛永16年(1639)定行は、3年の年月をかけ、築造当時五重であった天守を三重に改築する。これは地盤の弱さに起因する天守の安全確保とも、江戸幕府に配慮したためともいわれている。
 ところが、9代松平定国(8代将軍徳川吉宗の孫)の天明4年(1784)元旦、落雷で天守が焼失した。焼失後37年を経た文政3年(1820)父定国の遺志を継いだ11代定通は、復興工事に着手するが、着工16年にして、定通の逝去と作業場の火災で頓挫する。これを引き継いだ12代藩主松平勝善は、弘化4年(1847)城郭復興に着手、ようやく安政元年(1854)悲願の天守が復興した。
 これが現在の天守で、姫路城と並ぶ典型的な連立式天守をもち、慶長期の様式を引き継ぐ、わが国最後の完全な城郭建築といわれる。
 ~ パンフレット引用 ~
  松山城の地図
  
 
    太鼓門・太鼓櫓
 太鼓門・太鼓南北続櫓・太鼓櫓・巽櫓は一つの防御単位を構成し、高さ約5mの石垣に一線に構築され、筒井門から本丸南腰郭に侵入してくる敵に備えている。石垣の西端の太鼓櫓と太鼓門との間にある24.41mの渡塀には狭間21ヶ所、石落2ヶ所が設けられている。
 ~ パンフレット引用 ~ 
 
  太鼓櫓の写真
太鼓櫓

 
    戸無門
 この門は、本丸の大手入口の最初に現存する高麗門である。登城道U字屈折の終点に位置する。昔から門扉がないので戸無門と呼ばれ、鏡柱にも扉を取り付けた痕跡がない。
 ~ パンフレット引用 ~
 
  戸無門の写真
戸無門

 
    筒井門
 この門は築城の際、正木城から移転されたと伝えられる松山城最大の門である。三之丸・二之丸から本丸へ向かう大手(正面)の固めを構成する重要な櫓門で、城中で最も重要かつ堅固な所となっている。
 ~ パンフレット引用 ~
 
  筒井門の写真
筒井門

 
  太鼓門の写真
太鼓門

 
    大天守と小天守
 大天守は三重三階地下一階の層塔型天守で、黒船来航の翌年落成した江戸時代最後の完全な城郭建築。また、現存12天守の中で、唯一、築城主として瓦には「葵の御紋」が付されている。
 小天守は、二重櫓、小天守東櫓とも呼ばれ、大手(正面)の二之丸・三之丸方面を監視防衛する重要な位置にある。 大天守、小天守、隅櫓を渡櫓で互いに結び、武備に徹したこの天守構造物群は、わが国の代表的な連立式天守を備えた城郭といわれている。
 ~ パンフレット引用 ~
 
  大天守と小天守の写真
大天守と小天守

 
  大天守と小天守の写真
大天守と小天守

 
    一ノ門
 一ノ門は天守に通じる本壇入口を守る門で木割も大きく豪放な構えとなっている。形式は上方からの攻撃が容易な高麗門で二ノ門との間は枡形という方形空間となっていて小天守・一ノ門南櫓・二ノ門南櫓・三ノ門南櫓の四方から攻撃できる。
 ~ パンフレット引用 ~
 
  一ノ門の写真
一ノ門

 
    筋鉄門
  筋鉄門は櫓門で、天守玄関がある中庭を防御する重要な門である。この門の櫓は小天守と大天守をつなぎ、三ノ門から侵入する敵の正面を射撃する構えとなっている。
 ~ パンフレット引用 ~
 
  筋鉄門と東塀の写真
筋鉄門

 
    仕切門内塀
 乾門方面に対し側防の構えとなっている。天明4(1784年)雷火のため天守とともに焼失し、安政元(1854)年に再建された。
 昭和10年国宝に指定されたが、同25年法の改正により重要文化財となった。
 ~ 現地案内板引用 ~
 
  仕切門内塀の写真
仕切門 内塀

 
  パンフレットと入場券の写真
パンフレット

上に移動する

松山城スタンプの画像
松山城のスタンプ


カバンとカメラのイラスト
松山城への旅

Copyright © mitukarukunn All Rights Reserved.