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湯築城 |
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場所 :
愛媛県松山市 (Googleマップ)
築城年代 : 南北朝時代 (14世紀中頃)、天文4年 (1535)
築城者 : 河野通盛?、河野弾正少弼通直
主要城主 : 河野氏
スタンプ設置 : 湯築城資料館
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湯築城は、中世の伊予国の守護であった河野氏が南北朝期から戦国期(14世紀前半~16世紀末)まで、約250年間にわたって居城としていました。河野氏は風早郡河野郷(松山市北条地区)を本拠として勢力を伸ばした一族で、源平合戦(1180~1185年)では河野通信が源氏方として功績を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となり伊予国の統率権を得ました。
承久の乱(1221年)で没落するものの、通信のひ孫通有が元寇(1281年)で活躍し、一族の力が復活した南北朝期の通盛の時(1335年前後)に河野郷からこの湯築城へ本拠を移しました。その後、有力守護細川氏の介入や一族間の内紛がありましたが、足利将軍家と結びつき近隣の大内・大友・毛利氏などと同盟や姻戚関係を持ちつつ、伊予の守護としての地位を確立しました。庶子家との争いも克服し、通直(弾正少弼)は、湯築城の外堀を築き(1535年頃)娘婿の村上海賊衆(来島通康)との関係を強化しましたが、後に離反し、一族の力は徐々に衰えていきました。最後の当主通直(牛福丸)は、全国統一を目指す豊臣秀吉の四国攻めにより小早川隆景に湯築城を明け渡し、平安時代末期から戦国期(12世紀末~16世紀末)までの、実に400年の長きにわたる河野氏の伊予支配に終止符が打たれました。
鎌倉時代に時宗を興した一遍上人は、河野通信の孫にあたります。
~ パンフレット引用 ~
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![湯築城の地図](080_yuzuki/map_yuzuki.jpg)
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中世の城郭である湯築城は、近世の城郭が持つ石垣や天守が無く、地形を利用して作られた平山城です。築城当初の14世紀前半は、中央の丘陵部を利用した山城でしたが、約200年後の16世紀前半には周囲に外堀を築き、二重の堀と二重の土塁を巡らせた平山城になったと推定されます。
江戸時代に書かれた絵図から、東側が大手(表)、西側が搦手(裏)と考えられています。また、発掘調査が行われた道後公園の南部では、外堀の内側に排水溝をともなった道路が巡っており、内堀との間の平地部のうちの西側は建物礎石・土塀などの遺構から「家臣団居住区」、東側は広い区画内に庭園区をともなう遺構から「上級武士居住区」と見られています。このことから、城内は機能や格式によって使い分けられていた様子が明らかになり、当時の城内の生活を復元する上で貴重な情報が得られました。
発掘調査は昭和63年に開始され、これまでに公園の南部を中心に約2万㎡について調査をしています。伊予の歴史・伝統文化を育んだ河野一族の栄華は、まだこの地に秘められているかもしれません。
~ パンフレット引用 |
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![湯築城搦手入口の写真](080_yuzuki/P1040505.JPG)
湯築城 搦手入口
(中央奥の建物は湯築城資料館)
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内堀・内堀土塁
湯築城には二重の堀があります。発掘調査で、この付近の内堀の外側にも内堀土塁
があったことがわかっています。
上が削られているため幅は確認できていませんが、少なくとも95センチメートル以上ありました。土師質土器の皿や杯、備前焼の大甕、中国陶磁器の碗などが見つかっています。
~ 現地案内板引用 ~ |
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![内堀と内堀土塁の写真](080_yuzuki/P1040506.JPG)
内堀・内堀土塁
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![内堀の写真](080_yuzuki/P1040507.JPG)
内堀
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![展望台から松山城方面を望む写真](080_yuzuki/P1040508.JPG)
湯築城展望台から松山城方面を望む
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![丘陵広場の写真](080_yuzuki/P1040509.JPG)
湯築城 丘陵広場
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![パンフレットの写真](080_yuzuki/yuzuki.jpg)
パンフレット
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