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053 二条城

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   二条城  
 
 場所 : 京都府京都市(Googleマップ)

 築城年代 : 慶長8年(1603)、寛永3年(1626)
 築城者 : 徳川家康、徳川家光
 主要城主 : 徳川氏
 スタンプ設置 : 大休憩所

 

二条城の地図
 
    二条城
 二条城は1603年(慶長8年)、江戸幕府初代将軍徳川家康が、天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とするため築城したものです。将軍不在時の二条城は、江戸から派遣された武士、二条在番によって守られていました。
 3代将軍家光の時代、後水尾天皇行幸のために城内は大規模な改修が行われ、二の丸御殿にも狩野探幽の障壁画などが数多く加えられました。壮麗な城に、天皇を迎えることで、江戸幕府の支配が安定したものであることを世に知らしめたものです。
 1867年(慶応3年)には15代将軍慶喜が二の丸御殿の大広間で「大政奉還」の意思を表明したことは日本史上あまりにも有名です。
 二の丸御殿、二の丸庭園、唐門など、約400年の時を経た今も絢爛たる桃山文化の遺構を見ることができます。1994年(平成6年)、ユネスコ世界遺産に登録された二条城は徳川家の栄枯盛衰と日本の長い歴史を見つめてきた貴重な歴史遺産と言えます。
 ~ パンフレット引用 ~

  大政奉還
 1867年(慶応3年)10月14日、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上することを申し出て、翌15日に朝廷が許可し、江戸幕府の幕は降ろされました。これを日本史上、大政奉還と呼んでいます。
 徳川家康が朝廷から征夷大将軍を宣下されて以来、政治の大権を天皇から徳川家が預かる形で、日本の統治者として君臨してきましたが、幕末、薩摩藩と長州藩が同盟を結んで討幕運動を始め、土佐藩からは慶喜に大政奉還の意見書が提出されました。それを受けて慶喜は、10月13日、二条城二の丸御殿大広間に、在京していた40藩の重臣を集めて意見を聞き、翌々日、大政奉還が成立したことで、一旦は討幕の動きは弱まりましたが、やがて江戸無血開城へと至りました。
 ~ パンフレット引用 ~


 
  二条城東大手門の写真
東大手門
 
 
    東大手門 [ 重要文化財 ]
 二条城の正門にあたり、現存の門は1662年(寛文2年)頃の建築と考えられています。築城当時は現在のように櫓門(2階建て)でしたが、寛永の二条城行幸時には天皇を2階から見下ろさないようにとの配慮から、一重の門に建て替えら れたと言われています。
 ~ パンフレット引用 ~

 
  二条城唐門の写真
唐門

 
    唐門 [ 重要文化財 ]
 二の丸御殿の正門にあたり、切妻造、桧皮葺の四脚門でその屋根の前後に唐破風が付きます。門には長寿を意味する「松竹梅に鶴」や、聖域を守護する「唐獅 子」など、豪華絢爛な極彩色の彫刻を飾ります。2013年(平成25年)の修復工事によって、往時の姿によみがえりました。
 ~ パンフレット引用 ~

 
  二条城二の丸御殿の写真
二の丸御殿

 
    二の丸御殿 [ 国宝 ]
 東南から北西にかけて、遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が雁行形に立ち並ぶ御殿です。部屋数33室、800畳余りもある内部は、代表的な「松鷹図」をはじめ、将軍の威厳を示す虎や豹、桜や四季折々の花を描いた狩野派の障壁画(模写画)で装飾されています。
 ~ パンフレット引用 ~

 
  二の丸御殿の図面
(パンフレットの図引用)

 
    国宝 二の丸御殿
 二の丸御殿は全6棟の建物からなり、江戸初期に完成した住宅様式である書院造の代表例として日本建築史上重要な遺構です。江戸城、大坂城、名古屋城の御殿が失われた今日、国内の城郭に残る唯一の御殿群として国宝に指定されました。
 内部は、日本絵画史上最大の画派である狩野派による障壁画と多彩な欄間彫刻や飾金具によって装飾されており、将軍の御殿にふさわしい豪華絢爛な空間となっています。

 ①遠侍 一の間・二の間・三の間
 遠侍は来殿者が控える場所で、二 の丸御殿最大の建物です。来殿者が最初に立ち入るこれらの部屋は、襖や壁の絵から「虎の間」とも呼ば れています。獰猛な虎の絵や壮大な空間は徳川家の権力の大きさを実感させたと思われます。

 ②式台 式台の間
 式台は、将軍への用件や献上物を取次ぐ場所とされています。表の「式台の間」と裏の「老中の間」からなります。式台の間は、老中と大名が挨拶をし、将軍への取次ぎが行われたとされる部屋です。障壁画には、永遠に続く繁栄を表すおめでたい植物として松が描かれています。

 ③大広間 三の間
 厚さ35センチの檜の板を両面から透かし彫りした欄間の彫刻や、大広間や黒書院の柱に取り付く花熨斗形(はなのしがた)の長押金具は大変豪華で見ごたえがあります。

 ④大広間 一の間・二の間
 将軍と大名や公卿衆との公式の対面所です。大広間の主室であり、一の間(上段の間)、二の間(下段の間)からなります。一の間は、書院造りの特徴である床の間、違棚、付書院、帳台構を備えています。対面の際には、将軍は一の間で南を向いて座し、床の間に三幅対の掛軸をかけ、違棚や付書院には工芸品などを飾ったとされています。障壁画は狩野探幽筆です。

 ⑤黒書院
 江戸時代の名称は「小広間」で、大広間に次ぐ公式の場です。将軍と徳川家に近しい大名や高位の公家などが対面しました。一の間と二の間は、満開の桜が目を惹くことから「桜の間」と呼ばれ、将軍が背にする、かすかに雪をのせた松の枝に加え、梅の花や散りゆく桜を交えることで、季節の流れを感じさせます。襖絵は探幽の弟・尚信筆です。

 ⑥白書院
 江戸時代には「御座の間」と呼ばれることから、将軍の居間と寝室であったと考えられています。水墨画に包まれる空間は他の棟と趣が異なり、落ち着いた印象をあたえます。中国由来の題材が選ばれ、一の間と二の間は名勝・西湖が、三の間には伝説や歴史上の人物が描かれています。

 ⑦大広間 四の間
 将軍の上洛のときに武器をおさめた場所といわれています。障壁画の「松鷹図」は、二の丸御殿の中でも最も有名なもので、桃山時代の様式を取り入れた巨大な松と勇壮な鷹が描かれています。

 ⑧式台 老中の間
 3部屋からなり、老中が控えていた部屋です。一の間とこの間は「芦雁図」で、三の間は「柳鷺図」です。長押上は白壁のままで質素な造りです。

 ⑨遠侍 勅使の間
 遠待の部屋の一つで、朝廷からの使者(勅使)を迎えた対面所とされています。障壁画には、優美な檜や青楓などが描かれています。

 ⑩遠侍 柳の間
 障壁画は、「勅使の間」や隣接する「若松の間」や「芙蓉の間」と同様に植物を題材としており、公家向けの趣を持っています。
 ~ パンフレット引用 ~


  二の丸御殿の障壁画
 二の丸御殿には、寛永期の障壁画を含む約3,600面の障壁画が残されています。1982年(昭和57年)には、そのうち1,016面が国の重要文化財に指定されました。寛永期の障壁画は、1626年(寛永3年)の後水尾天皇の行幸のために大改築された際、幕府御用絵師であった狩野派の若き棟梁・狩野探幽が一門の総力を挙げて制作したものです。
 ~ パンフレット引用 ~


  二の丸御殿の廊下
 人が歩くと鳥の鳴き声のような音がなることから、「鴬(うぐいす)張り」と呼ばれています。
 目かすがいと釘のこすれによって生じています。
 ~ パンフレット引用 ~

 
  二条城二の丸庭園の写真
二の丸庭園

 
    二の丸庭園 [ 特別名勝 ]
 池の中央に蓬莱島、左右に鶴亀の島を配した書院造庭園です。1626年(寛永3年)の後水尾天皇行幸のために作事奉行・小堀遠州のもとで改修されました。二の丸御殿の大広間、黒書院、行幸御殿の3方向から鑑賞できるように工夫されています。
 ~ パンフレット引用 ~

 
  二条城本丸櫓門の写真
本丸櫓門

 
  二条城本丸御殿の写真
本丸御殿

 
    本丸御殿 [ 重要文化財 ]
  本丸庭園
 内堀に囲まれた広さ20,000㎡の本丸にある「本丸御殿」は、1893年(明治26年)に京都御所の北東部にあった桂宮御殿を移築したものです。貴重な宮家の御殿建築の遺構として重要文化財に指定されています。本丸御殿の南側の「本丸庭園」は、明治天皇の行幸の際に、枯山水庭園から大改造した庭園です。東南隅に築山を配し、芝生を敷き詰めて曲線的な園路を設けた優美な造りが四季折々の風情を感じさせてくれます。
 ~ パンフレット引用 ~

 
  二条城天守閣跡の写真
天守閣跡

 
  天守閣跡から本丸御殿方面を望む写真
天守閣跡から本丸御殿方面を望む

 
    天守閣跡
 二条城の天守閣は、寛永3年(1626)、伏見城から移築されたと考えられている。屋根は5重あるが、内部は地上5階、地下1階の大きさで、屋根には瓦型の銅板が葺かれていたようである。寛永行幸の時、後水尾天皇は2回天守閣へ登られ、ここが、天皇が登った唯一の天守閣と言われている。寛延3年(1750)、落雷により焼失し、再建されることなく現在に至っている。天守台の大きさは、石垣の高さ約18m、広さ約427㎡である。なお、築城当初の二条城には、別の場所に天守閣があった。今の清流園のあたりである。もとは大和郡山城にあったものと考えられており、寛永年間に城域を拡張するに際し、淀城へ移築された。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  二条城内堀の写真


二条城内堀の写真
内堀

 
  二条城北大手門の写真
北大手門

 
    重要文化財 北大手門
 北大手門は、道を挟んだ向いに京都所司代屋敷が存在するので、その連絡門としても使われたと思われるが、正門である東大手門に対する控えの門として、それにふさわしい威容を備えている。慶長8年(1603)の築城時からこの場所にあるが、現在の建物がその時のものか、寛永行幸時(1626)に建て替えられたのかは分からない。
 規模は、長さが東大手門より3間(6m)短く、門構えも一回り小さいが、奥行きや高さは同じで、正面の出格子窓に「石落し」を備えるのも同じである。飾金物に金箔や座金を使わないことや、二階床梁が東大手門は角材であるのに対し、北大手門は丸太を使うなど装飾性に違いは見られるが、外観や構えに遜色はない。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  パンフレットと入場券の写真
パンフレット&入場券
 
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