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小田原城
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場所 :
神奈川県小田原市 (Googleマップ)
築城年代 :
15世紀中頃、15世紀末、天正19年(1591)?、寛永10年(1633)
築城者 : 大森氏、小田原北条氏、大久保忠世、稲葉正勝
主要城主 : 大森氏、小田原北条氏、大久保氏、稲葉氏
スタンプ設置 : 天守閣1階
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小田原城の本丸は、東西83間(約150m)、南北63間(114m)ほどの規模があり、その西端に天守台、中央には本丸御殿がありました。本丸の周囲には石垣と土塀が巡らされ、東と北の2箇所に門が設けられていました。東側の門は、本丸正面にあたる常盤木門、北側は裏門で鉄門と呼ばれていました。
本丸御殿は他のお城では藩主居館として用いられます。しかし、小田原城では徳川将軍家の宿所としての役割を持っており、寛永10年(1632)の寛永小田原大地震で倒壊したため、翌年に上洛する三代将軍徳川家光の宿所として再建されました。 その後、将軍家の上洛が途絶えた後も維持されていましたが、元禄16年(1703)の地震により倒壊・焼失してからは再建されることはありませんでした。
現在、本丸の東南には「巨松」と呼ばれる天然記念物のマツの巨木があります。元禄年間(1688~1704)の小田原城の姿を描いた「寛永年間小田原城廓総図」(通称「宮内庁図」には、「七本松」と呼ばれた松の姿が描かれていますが、巨松は「七本松」最後の一本で樹齢は400年を超えています。
~ 現地案内板 引用 ~ |
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馬出門
馬出門は、三の丸から二の丸に向かう大手筋(正規登城ルート)に位置する門です。寛文12年(1672)に桝形形式に改修され、江戸時代末期まで存続しました。
石垣と土塀で四角く囲んだ桝形と、本柱と控柱を備えた高麗門形式の馬出門・内冠木門の二つの門から成ります。
~ 現地案内板 引用 ~ |
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馬出門
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住吉橋 |
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銅門
銅門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、江戸時代のほぼ全期間をとおしてそびえていましたが、明治5年に解体されてしまいました。現在の銅門は、昭和58年から行われた発掘調査や古写真絵図などを参考に、平成9年に復元されたものです。
銅門の形式は、石垣による桝形、内仕切門、櫓門、を組み合わせた桝形門と呼ばれる形式で、本来の工法で復原されています。
~ 現地案内板 引用 ~ |
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銅門
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常盤木門
小田原城本丸の正面で、最も大きく堅固に造るられていた。常盤木とは常緑樹の意味で、門のそばにあった松になぞらえて、この名がつけられたと言われている。
市制30周年事業として昭和46年(1971)に再建された。
~ 現地案内板 引用 ~
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常盤木門
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常盤木門
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小田原城 天守閣
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小田原城 天守閣 |
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大手門跡
この鐘楼は、江戸時代に小田原城大手門の櫓台北側石垣があった場所にあります。
東側の城下(国道1号側)より一段高くなっており、この門より西側は小田原城三の丸で、藩の重臣屋敷が立ち並んでいました。
大手門には、翌年に三代将軍徳川家光の上洛を控えた寛永10年(1632)の改修工事により石垣が造られました。また、寛永20年(1642)に幕府の許可を経て、正保年間(1644~1648)に渡櫓門が建設され、延宝年間(1673~1681)には前面に冠木門が普請されました。渡櫓門と冠木門からなる大手門の規模は銅門とほぼ同じです。
「寛永年間小田原城廓総図 」 ( 通称「宮内庁図」
)によると、渡櫓門の前には枡形勢溜が設けられ、さらに冠木門の外には長方形の馬出を設けて防御力を強化しています。城外とは幅9間半~11間(約11~20m)
の三の丸堀で隔たれており、堀には「大手口橋台」とも呼ばれた土橋が設けられていました。
なお、大手門櫓台石垣上に鐘楼が設けられたのは大正時代のことです。
~ 現地案内板 引用 ~ |
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大手門跡
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大手門跡 |
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パンフレット&入場券
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