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白河小峰城 |
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場所 :
福島県白河市 (Googleマップ)
築城年代 : 興国正平年間 (1340~1369)
寛永6~9年 (1629~1632)
築城者 : 結城親朝、丹羽長重
主要城主 :
結城氏、丹羽氏、松平(榊原)氏、本多氏、松平(奥平)氏、松平(越前)氏、松平(久松)氏、阿部氏
スタンプ設置 : 小峰城歴史館(旧 白河集古苑)、(公財)白河観光物産協会、二ノ丸茶屋、三重櫓
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![白河小峰城の地図](013_shirakawakomine/map_shirakawakomine.jpg) |
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![白河小峰城入口の写真](013_shirakawakomine/IMG_0560.JPG)
城山公園入口
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国指定史跡小峰城跡
阿武隈川の南側、小峰ヶ岡と呼ばれる東西に長い独立丘陵(標高370m)を利用して築かれた城郭が小峰城です。江戸時代に編さんされた「白河風土記」(1805年成立)によれば、興国・正平年間(1340~69)頃、白河庄の領主結城宗広の嫡男親朝(別家小峰家を創設)の築城がはじまりとされます。
永正年間(1504~20)以降、一族に起こった内紛で小峰家が権力を掌握し、白河結城家を代表するようになると、本拠が小峰城に移ったと考えられています。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置によって白河結城家が改易され、以降約40年にわたって白河は会津藩領となり、小峰城には城代が置かれました。
寛永4年(1627)、白河は会津藩領から離れて白河藩が成立します。現在目にすることができる石垣をめぐらせた城跡は、初代藩主丹羽長重が幕府の命を受けて改修したとされ、梯郭式平山城の近世城郭として寛永9年(1632)まで約4年の歳月をかけて大きく改修したものです。
この大改修は、本丸・二之丸を総石垣で固め、三之丸も門の周辺部を石垣積みとしたもので、東北地方には数少ない、随所に石垣を多用した特徴があります。
現在、本丸・二之丸を中心とした約16万3000平方メートルは史跡となっていますが、当時の城郭の範囲は現在のJR白河駅の南側までを含むもので、約54万平方メートルの規模と推定されています。
小峰城は丹羽長重とその子光重が在城したあと、榊原家(1代)・本多家(2代)・奥平松平家(1代)・結城松平家(3代)・久松松平家(4代)・阿部家(8代)と、親藩・譜代大名6家19代の居城となり、北東北の外様大名に対する江戸の防衛ラインの一端として「奥州の押さえ」の役割を担いました。
慶応3年(1867)、阿部家が棚倉に転封されると白河藩は消滅して小峰城は幕府管理となり、翌年には戊辰戦争が勃発すると新政府の管理地となります。
東北地方まで戦火が及ぶと、要衝の地である白河をめぐって奥州越列藩同盟軍と新政府軍が戦い、小峰城内の建物の多くは焼失しました。
しかし、平成3年(1991)に三重櫓・同6年に前御門が発掘調査や江戸時代の精巧な絵図「白河城御櫓絵図」)をもとに木造で忠実に復元され、往事を偲ばせています。また、この復元は、近年全国各地で行われるようになった城郭建築物の木造復元のさきがけとなりました。
~ 現地案内板引用 ~
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![白河小峰城三重櫓の写真](013_shirakawakomine/IMG_0581.JPG)
白河小峰城 三重櫓
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三重櫓跡
本丸の北東隅に建つ三層三階の櫓で、小峰城の中心となる最も規模の大きな櫓です。高さが約13m、一階が約12m四方、二階が約8m四方、三階が約7m四方の正方形となっています。外観は黒塗りの板を張った「下見板張」で、耐久性が高いとされます。
北側には、張り出して「石落とし」が設けられているほか、南側と西側にも張り出した土間が設けられ、西側の土間に出入口があります。屋根に飾られている鯱は高さ約1.2mです。
一般的に、櫓は武器などを保管する保管庫の役割を果たしていることから、この三重櫓も同様の役割を果たしていたことが推測されます。
また、白河藩瓦師の家に伝来した資料から、三重櫓に使用する瓦は1万3千枚を超える膨大な数だったことが分かります。
~ 現地案内板引用 ~
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![白河小峰城三重櫓の写真](013_shirakawakomine/IMG_0569.JPG)
白河小峰城 三重櫓
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![三重櫓内部の写真](013_shirakawakomine/IMG_0576.JPG) |
![三重櫓内部の写真](013_shirakawakomine/IMG_0577.JPG) |
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白河小峰城 三重櫓内部
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本丸御殿跡
本丸の平坦地には、御本城御殿(本丸御殿)と呼ばれる建物が存在していました。
写真の絵図は、松平定信の藩主時代の文化5年(1808)に作成された「白河城御櫓絵図」中の「御本城御殿平面図」で、奥に「御小書院」、中央に「御月番(月交替の担当家老の部屋か)」「御奉行」などが見えることから、藩主の居所と政庁を兼ねていたと考えられます。また、「御書院」では家臣を集めた申し渡しなども行われていたようです。
建物の規模や外観などは分かりませんが、同じ頃と考えられる別の御殿絵図によれば畳数は707畳とあり、かなりの大きさだったことがうかがえます。
~ 現地案内板引用 ~
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![白河小峰城石垣の写真](013_shirakawakomine/IMG_0586.JPG)
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![白河小峰城石垣の写真](013_shirakawakomine/IMG_0566.JPG) |
![白河小峰城石垣の写真](013_shirakawakomine/IMG_0567.JPG) |
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白河小峰城石垣
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小峰城の石垣
小峰城に石垣が積まれたのは、江戸時代の初めの会津藩支城時代のときです。主に本丸に積まれていたようで、この時期の石積みの跡は、三重櫓の北面の石垣で確認することができます。
寛永4年(1627)に白河藩が成立し、初代白河藩主となった丹羽長重は、寛永6年(1629)から約4年かけて、城郭の大改修を行いました。長重による改修の特徴は、本丸・二の丸を総石垣造りにして、三の丸の各所の門付近にも石垣を築いたことがあげられます。
明治時代以降、本丸・二の丸を除く大半には、官公庁や住宅、線路・駅舎が造られ、多くの石垣は壊されました。それでも現在、本丸を中心に約2kmの長さの石垣を確認することができます。
今に残る石垣は、江戸時代から現代まで何度も修復が行われました。そのため、石垣を観察すると、様々な積み方の石垣を確認することができます。
~ 現地案内板引用 ~
小峰城内の石積みの種類
・打込ハギ乱積み
石材を粗く加工したもので、大きさの不揃いです。すき間に間詰石が詰められています。
・打込ハギ布積み
大きさがほぼ同じ石材を用い、横方向に目地が通っています。すき間には丁寧に間詰石が詰められています。
・切込ハギ布積み
石材の目地が通るよう、規格化された切石をすき間なく積み上げています。
・落し積み
石材を斜めに積んだ石垣です。半同心円状に見えるものも存在します。
~ 現地案内板引用 ~
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![多聞櫓跡の写真](013_shirakawakomine/IMG_0570.JPG)
多聞櫓跡
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![白河集古苑の写真](013_shirakawakomine/IMG_0562.JPG)
白河集古苑 (スタンプ設置)
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![集古苑の写真](013_shirakawakomine/IMG_0564.JPG)
白河集古苑内の碑
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むら尾花句碑 (左側)
ほととぎす まねくか麦の むら尾花 (芭蕉)
松涛山記碑 (右側)
この碑は安永10年(1781)阿部藩邸(麻布)に作られた亭(あずまや)について記したもの。
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丹羽長重
元亀2年(1571)~寛永14年(1637)
丹羽長重は、織田信長・豊臣秀吉に仕えた丹羽長秀の子として元亀2年(1571)に岐阜で生まれました。12歳の時に「本能寺の変」が起こり、その年に信長の娘と結婚。15歳で父・長秀が没した後は越前・若狭両国と加賀・近江123万石を継ぎましたが、天下を取った豊臣秀吉の勢力削減策により、2度にわたり石高を減らされました。そして、「関ヶ原の戦い」の直前、加賀の前田利長(徳川方)と争い、徳川家康に城地を没収されました。
しかし、家康が征夷大将軍となり徳川幕府が成立すると、常陸国古渡1万石を与えられて復活。家康の没後は2代将軍秀忠に信頼され、奥州棚倉に国替えとなり、棚倉城を築城しますが、完成を見ないまま白河へ移封しました。長重57歳の時でした。
白河に入封した長重は、直ちに侍屋敷の拡張を行い、その後小峰城の大改修に着手。城下町の改修・整備なども行い、現在の白河市街地の基礎を造りました。
~ 現地案内板引用 ~
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![パンフレットと入場券](013_shirakawakomine/IMG_20210529_181655.jpg)
パンフレットと入場券
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