「みつかる君 100名城めぐり」タイトル画像
012 会津若松城

ホーム


100名城


スタンプ


 旅行日程





リンクの画像


熟語一発検索
みつかる君




みつかる君と行く
時空の旅



   会津若松城 (鶴ヶ城)  
 
 場所 : 福島県会津若松市 (Googleマップ)
 築城年代 : 至徳(元中)元年(1384)、文禄元年(1592)、寛永16年(1639)
 築城者 : 葦名直盛、蒲生氏郷、加藤明成
 主要城主 : 葦名氏、蒲生氏、加藤氏、松平(保科)氏
 スタンプ設置 : 天守閣内売店

 

会津若松城の地図

    鶴ヶ城 (会津若松城)
 南北朝の頃、葦名氏によって黒川城が築かれたが、文禄元年(1592)蒲生氏郷が七層の天守閣を建て外郭を築き、黒川の地を若松と改め城の名を鶴ヶ城と命名した。
 上杉から再蒲生そして加藤となり寛永16年(1639)加藤明成が天守閣を五層にし北出丸、西出丸を増築して現在の城跡を完成させている。戊辰の役(1868)には1ヶ月のろう城に堪えた。
 ~ 現地案内版引用 ~

 幕末の戊辰戦争では約1ヶ月に及ぶ戦いが鶴ヶ城を中心に行われた。鶴ヶ城は砲弾にさらされ傷つき荒れ果てた。戊辰戦争後天守閣は政府の命令により取り壊された。市民の願いが叶い、天守閣が復元されたのは昭和40年のことである。
~ パンフレット引用 ~

 
  会津若松城天守閣の写真
会津若松城 (鶴ヶ城) 天守閣

 
  会津若松城鉄門の写真
会津若松城 鉄門

 
    表門 (鉄門)
 帯郭から本丸内の奥御殿に通じる表門で、北向きの多聞櫓城門である。扉や柱が鉄で包まれていたことから鉄門の名がつけられている。門の石垣の工法は「切込ハギ」と呼ばれる積み方で、四辺形に加工した石を積む巧みな工法となっている。
 ~ 現地案内版引用 ~

 
  会津若松城天守閣の写真
会津若松城 天守閣

 
  会津若松城天守閣の写真
会津若松城 天守閣

 
    月見櫓
 この櫓には常に武器が納められていた。また、櫓にかかる月が一際美しかったことからこのような名で呼ばれた。役割としては城下南方の物見櫓、また内濠から続く本丸南側の石垣の横矢掛としても重要な櫓だった。
 ~ 現地案内版引用 ~
 
  月見櫓の写真
月見櫓

 
    茶壺櫓
 この櫓の下には、茶室麟閣があり、櫓内には主に貴重な茶器類が納められていたためこの名がある。茶壺櫓は廊下橋の側面の守りとしても重要な櫓である。廊下橋両側の石垣は高さ約20mと城内で最も高く美しい石積みである。
 ~ 現地案内版引用 ~

 
  茶壷櫓の写真
茶壷櫓

 
    荒城の月碑
 名曲「荒城の月」が鶴ヶ城と青葉城をモチーフに作詞されたことは土井晩翠氏を招いた、音楽会であきらかとなった。時は昭和21年のことである。
 翌年、有志により詩碑建設会が設立され、同年6月5日、土井晩翠夫妻を招いた盛大な除幕式が行われた。
 この詩碑には、晩翠氏直筆による荒城の月1番~4番までの歌詞が記されている。
 ~ 現地案内版引用 ~

 
 
 荒城の月

春高楼の花の宴
めぐる盃 影さして
千代の松が枝 わけ出でし
むかしの光 今何處

秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁の数みせて
植うるつるぎに照りそいし
昔のひかり いまいづこ

今荒城の夜半の月
変らぬ光たがためぞ
垣に残るは唯かづら
松に歌うはただ嵐

天上影は かわらねど
栄枯は移る世の姿
うつさんとてか 今もなほ
ああ 荒城の夜半の月

 土井晩翠

 
  荒城の月碑の写真
荒城の月碑

 
    寄付
 外露地に構えられる建物で、茶会に先立って客が連客と待ち合せたり身支度を整えて、席入りの準備をするための施設。
 この寄付は、森川家から移築、復元したものである。
 ~ 現地案内版引用 ~
 
  寄付の写真
寄付

 
    茶室 麟閣
 天正19年、千利休は豊臣秀吉の怒りにふれ、死を命じられました。この時、千利休の茶道が途絶えることを惜しんだ会津の領主、蒲生氏郷は、利休の子の少庵を会津に匿い、豊臣秀吉に「千家再興」を願いでました。この結果、少庵は京都へ帰り、千家茶道は少庵の子の宗旦に引き継がれ、その孫により武者小路千家、表千家、裏千家の三千家が興され現在に伝えられています。
 この「麟閣」は少庵が会津に匿われていた時、氏郷のために造ったと伝えられており、戊辰戦争後は茶人森川善兵衛宅で大切に保存されてきました。
 会津若松市では平成2年、市制90周年を記念し、この麟閣を元の場所へ移築復元し後世へ伝えるものです。
 ~ パンフレット引用 ~

 
  茶室麟閣の写真
茶室麟閣

躙口の写真
茶室麟閣 躙口

 
  茶室麟閣内部の写真
茶室麟閣

 
    武者走り
 この石垣は、鶴ヶ城の大手門の渡り櫓などへ簡単に「昇り」「降り」ができるように造られています。
 v字型に造られており「武者走り」とも呼ばれ鶴ヶ城の石垣の特色の一つです。
 また、地表面での占有面積も少なくすみ、石積みについての当時の知恵がうかがえます。
 ~ 現地案内版引用 ~

 
  武者走りの写真
武者走り

 
    若松城址 (甲賀町口門跡)
    国指定史跡
    昭和9年12月28日指定
    平成5年10月29日追加指定
 この石垣は、郭外より若松城の郭内に入る門の石垣で、ここを界として内側を侍の屋敷とし、外側を町民の住居としていた。
 郭内と郭外の間には土塁が築かれ、外濠がめぐらされていた様子が今もしのばれる。
 当時、城下にはこのような門が16ヶ所あり、特に、この甲賀町口は大手門として他の郭門より厳重な構えをとったとされている。
 今回、「甲賀町口門跡」、「天寧寺町土塁」、「三の丸堀跡」の3ヶ所が国指定史跡若松城跡として追加指定を受けたものである。
 ~ 現地案内版引用 ~

 
  甲賀町口門跡の写真
甲賀町口門跡


 
  パンフレットと入場券の写真
パンフレットと入場券

 
上に移動する

会津若松城のスタンプ
会津若松城のスタンプ


カバンとカメラのイラスト
会津若松城への旅

Copyright © mitukarukunn All Rights Reserved.