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二本松城 |
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場所 :
福島県二本松市 (Googleマップ)
築城年代 :
応永21年(1414)、天正18年(1590)、寛永4年(1627)、寛永20年(1643)
築城者 : 畠山満泰、蒲生氏郷、加藤明利、丹羽光重
主要城主 : 畠山氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、丹羽氏
スタンプ設置 : 二本松市歴史資料館受付、JR二本松駅構内観光案内所
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![二本松城の地図](011_nihonnmatu/map_nihonmatu.jpg)
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史跡二本松城跡
二本松城は、諸説あるが応永21年(1414)頃中世畠山氏の居城として築城され、その後伊達・蒲生・上杉・松下・加藤氏と経て、寛永20年(1643)に丹羽光重が10万700石で入封して城内の石垣等の修築を行うとともに城下町整備を行い、以降、二本松藩の居城として明治維新に至った。当市教育委員会の発掘調査によって、本丸直下の平場で畠山氏時代の火災廃棄土坑や近世会津支城時代の石垣が見つかった。また中世城館から近世城郭への大規模な改修が寛永4年(1627)~20年の加藤氏時代に行われたことも判明した。当城跡は東北地方を代表する近世城郭であり、中世城館と近世城郭が同一箇所で営まれ、かつその変貌がよくわかり、中世・近世の政治及び築城技術を知るうえで重要である。
~ 現地案内板引用 ~
二本松城大手門跡
奥州道中に面するこの地(久保丁口)に築造された堀をともなった大手門で、通称「坂下門」ともいった。天保3年(1832)幕府に絵図面を添えて願い出て、許可を得て建造した本格的な櫓門であった。初代藩主丹羽光重が寛永20年に入封した際に大手門建造を望んだが、藩の財政事情により実現はできなかったといわれる。
9代藩主丹羽長富の治世に至り、傑物家老として知れた丹羽貴明の構想によって、代々藩主の悲願であった大手門が完成したが、わずか30数年後の慶応4年(1868)7月29日戊辰戦争の兵火により焼失した。現在、「亀甲積み崩し」技法による石垣を残し、築造年代の明確なものとして重要である。
~ 現地案内板引用 ~
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![二本松城の写真](011_nihonnmatu/IMG_0655.JPG)
二本松城
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二本松少年隊
慶応4年(1868)7月戊辰戦争の最中、二本松藩大半の兵力が西軍を迎え撃つべく出陣し、城内・城下は空虚同然であった。この緊迫した状況の下、少年たちの出陣嘆願の熱意に、藩主はやむなく出陣許可を与え、13歳から17歳までの少年62名が出陣。7月29日、城内への要衡・大壇口では隊長木村銃太郎率いる少年25名が果敢に戦ったが、正午ごろ二本松城は炎上し落城した。
この二本松少年隊群像は、大義のため戦う隊長及び少年隊士と、我が子の出陣服に藩主丹羽氏の家紋・直違紋(すじかいもん)の肩印を万感迫る思いで縫い付ける母の像を表したものである。
なお、この地は「千人溜(せんにんだめ)」といい、藩兵が集合する場所であり、少年隊士もここからそれぞれの守備地に出陣した。
~ 現地案内板引用 ~
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![二本松少年隊の写真](011_nihonnmatu/IMG_0656.JPG)
二本松少年隊
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箕輪門
初代藩主丹羽光重公入府まもなく、城内整備のため御殿と共に最初に建造した櫓門。支柱材料のカシの巨木は領内箕輪村山王寺山の御神木を用いたことから、この名がある。
~ パンフレット引用 ~
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![二本松城箕輪門の写真](011_nihonnmatu/IMG_0661.JPG)
二本松城箕輪門
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相生の滝
この滝は城内の自然地形を利用して作られ、昭和9(1934)年9月に竣工した。名称は公募により「相生瀧」と名付けられた。城内中腹を東流する二合田用水から水をひき、その水は箕輪門前の用水路へと流れ込み、城下へとつづく。
「二合田用水」は、初代二本松藩主丹羽光重公が17世紀後半に算学者・磯村吉徳に命じて開削したもので、遠く安達太良山麓から約18
km
にわたり清水をひき、城内・城下の用水として利用したものである。現在でも城内各所の水系に、この江戸期の大土木工事の痕跡をみることができる。
~ 現地案内板引用 ~
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![相生の滝の写真](011_nihonnmatu/IMG_0664.JPG)
相生の滝
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洗心亭 一棟
福島県指定重要文化財
平成16年3月23日 指定
二本松城址南西寄り、霞ヶ池西畔の丘陵に東面して建つ茶亭である。桁行五間、梁間二間、浅い床と天地付の棚および簡素な平書院を飾る北端の上座敷から中座敷・下座敷を一文字型に並べて配し、東面から北面にかけて幅二尺の榑縁を外縁式に折り回す。柱や土壁・建具等をはじめ、軒天井や垂木などに至るまで、すべて数寄屋風の手法が採用されている。
建立や沿革は、明治40年(1907)旧二本松藩士安部井磐根の執筆による「洗心亭記」が残され、これによると前身は城内に建立された茶亭のうちの一棟「墨絵の御茶屋」で、天保8年(1837)背方の崖崩れにより阿武隈川畔地蔵河原に移築され、藩主の釣茶屋として利用されていたものであるという。明治維新後、旧藩主の授産などに従事していた山田脩に旧藩主から譲渡され、明治40年、城跡内の現在地(ほぼ旧所在地と推定)に再移築された。二本松市歴史資料館所蔵「安井時僚覚書」によれば、延宝7年(1879)にはその存在が知られているため、創建は17世紀中葉ぐらいであったと推定される。
大名による茶屋(茶室)の県下における数少ない遺構の一つとして重要である。
~ 現地案内板引用 ~
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![洗心亭の写真](011_nihonnmatu/IMG_0667.JPG)
洗心亭
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霞ヶ城の傘マツ
二本松市指定天然記念物
「八千代の松」といわれるアカマツの巨木で、根元周囲
3.0m、目通り幹囲3.9
m、樹高約4.5mあり、地上1.6mで三枝している。南の支幹は枯死し、中央の支幹は周囲2.2m、北の支幹は1.5mあり、東西に約14mで傘状に広がっている。
推定樹齢約300年といわれ、樹勢も旺盛であり、独特の形状を呈している。
昭和51年7月21日指定
~ 現地案内板引用 ~
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![霞ヶ城の傘マツの写真](011_nihonnmatu/IMG_0668.JPG)
霞ヶ城 傘マツ
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二本松藩士自尽の地
慶応4年(1868)戊辰戦争において、薩摩・長州・土佐藩兵を主力とした西軍約七千名に対して、応援兵を合わせても兵力約千名の二本松藩は各所で戦いを繰り広げ、7月29日ついに城下・城内の戦いとなり正午頃二本松城は炎上し、落城しました。
二本松藩の戦死者337名以上・負傷者58名以上、他藩の戦死者208名以上という戊辰戦争中最大の壮烈な戦いでした。
ここでは、主戦論者であった家老・丹羽一学、城代・服部久左衛門、小城代・丹羽新十郎の3名が責任をとり自尽(割腹)し、壮絶な最期を遂げました。
~ 現地案内板引用 ~
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![二本松藩士自尽の地の写真](011_nihonnmatu/IMG_0673.JPG)
二本松藩士自尽の地
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日影の井戸
千葉県印西市の「月影の井」、神奈川県鎌倉市の「星影の井」と並び、「日本の三井」と称されています。
これは、「月影の井」縁起のなかの「清水湧出して四時渇水することなし、伝言、大管筑後の守の水行場と又月かげの井と称して、鎌倉星の井、奥州二本松の日の井と共に日本三井一なりと言う」に由来しています。
昭和の初期頃までは俗称で「底なし井戸」と呼ばれ、また古老の伝えでは「ひのゐ」、「蔭の井」とも称されていたといいます。
井戸の深さは約16mあり、さらに井戸底の岩盤をえぐって北方に約14m達していますが、今でも豊富な湧水を溜めています。
~ 現地案内板引用 ~
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![日影の井戸の写真](011_nihonnmatu/IMG_0675.JPG)
日影の井戸
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本丸下南面大石垣
二本松城に築かれれた、最も古い石垣のひとつです。築石は野面石(自然石)と荒割石が用いられ、その積み方は古式の「穴太積み」と呼ばれる特徴的な石のデザイン・テクニックです。
大小の石材をレンガをねかせるように横積みし、数石しか”横目地”の通らない、いわゆる「布積み崩し」の積み方です。
勾配は、直線的で緩やかな「ノリ(法)」を主体に構築されています。天端付近は積み直された形跡があり、本来はさらに数段高い石垣であったと考えられます。
二本松城が会津領の支城となった慶長初期頃、蒲生氏郷に抱えられた城郭石積み技術者集団「穴太衆」によって築かれた石垣です。
石垣の規模
[ 幅 ] 現天端部:約15m
基底部:約21m
[ 高さ ] 約13m
[ ノリ長 ] 約17m
[ 勾配 ] 約8分4厘 ( 約50度 )
~ 現地案内板引用 ~
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![本丸下南面大石垣の写真](011_nihonnmatu/IMG_0677.JPG)
本丸下南面大石垣
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本丸跡
室町時代は奥州探題職・畠山氏の居城。のち会津領時代に蒲生氏、加藤氏により石垣で築造、天守台は造られたが天守閣はできなかった。平成5年から総工費約5億3000万、2年をかけ石垣の全面修築復元工事を完成。
~ パンフレット引用 ~
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![本丸跡の写真](011_nihonnmatu/IMG_0679.JPG)
本丸跡
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![本丸跡から望む景色](011_nihonnmatu/IMG_0683.JPG)
本丸跡から望む
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久保丁門跡出土
礎石
久保丁門は、寛永20年(1643)に二本松藩主として入部した丹羽光重により城内整備の一環として久保丁坂の頂上に築かれて以来、天保3年(1832)久保丁入口に大手門、通称坂下門が新築されるまでの間、大手門の役割を果たした。
礎石は、花崗岩を約70センチ四方に整形し、中央に支柱用の14×11センチ・深さ9.3センチ、その斜め脇に支柱用の直径15.5センチ・深さ5.5センチの枘穴(ほぞあな)をあけている。
支柱用の枘穴の周囲には、39×30センチの柱を据えた痕跡が確認され、堂々たる門柱であったことがわかる。なお、当門は天保5年に改修されている。
~ 現地案内板引用 ~
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![礎石の写真](011_nihonnmatu/IMG_0686.JPG)
礎石 |
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