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007 多賀城

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   多賀城  
 
 場所 : 宮城県多賀城市 (Googleマップ)

 築城年代 : 神亀元年(724)
 築城者 : 大野東人
 主要城主 : -
 スタンプ設置 : 多賀城市埋蔵文化財調査センター展示室、JR国府多賀城駅自由通路

 


多賀城の地図


 
  多賀城跡
 多賀城は天平9年(737)に「多賀柵」として初めて「続日本書紀」に登場する。ついで宝亀11年(780)には「多賀城」と記され、その後は「多賀城」として史料にあらわれている。廃絶後の江戸時代には遺跡として記録が残り、早くから古城として知られていた。
 多賀城の発掘調査は、昭和35年に測量調査が行われ、昭和38年から開始された。昭和44年以降は宮城県多賀城跡調査研究所が継続的に調査を進めており、多賀城の規模・構造・年代・性格を詳細に解明し続けている。
【性格】
 多賀城は、①福島・宮城・岩手県地域を治める陸奥国府、②出羽国まで監督する広域の地方府、③蝦夷対策を進める中心拠点の性格があるとされている。
【立地】
 松島方面から南西にのびる低丘陵の先端に位置し、仙台平野を一望できる。
【外郭の堀とその規模】
 多賀城は、一辺約900mの不正な方形をなし、周囲は土をつき固めながら積み上げて、上に屋根をかけた「築地」で区画されている。築地は厚さが3m、高さは4mを超すと想定されている。地盤が軟弱な場所では、築地の代わりに丸材や角材を密に並べた「材木塀」が作られている。
【外郭の門】
 南・東・西の外郭辺で門が確認されている。南門は格式の高い二重門で、東・西門は八脚門であり、奈良時代中頃に礎石式に建て替えられた。
【政庁】
 多賀城のほぼ中央には政庁が置かれる。政庁は約100m四方を築地で囲み、中央やや北側に正殿、その手前両側に東・西脇殿が配置され、建物で囲まれた空間は広場を形成していた。ここでは重要な政務の決済や儀式が行われた。
【場内の様子】
 城内には多数の実務的な役所、木工や鍛冶などの工房、警備をする兵士の宿舎などが配置された。
【働く人々】
 都から赴任してくる按察使・国司・鎮守府官人など20名前後の役人のほか、書生などの下級役人・工人・兵士がおり、全体で1200人を超えると試算されている。
【年代】
 8世紀前半から11世紀前半頃まで存続し、3回の建て替えが行われた。
 ~ パンフレット引用 ~

 
  多賀城跡の写真
多賀城跡

 
    多賀城碑
 奈良時代に多賀城の修造を記念して制作された石碑です。2代藩主伊達忠宗の頃に土中から発見されると、西行や源頼朝が和歌に詠んだ歌枕ゆかりの地「壺碑」と関連付けられ、有名になりました。それにより、当時の文化人や学者の注目を集めるところとなり、仙台藩や民間の俳諧師により保護顕彰されてきました。
 江戸時代にここを訪れた松尾芭蕉は、時間とともに変わりゆく歌枕の中で、多賀城碑だけが昔からの変わらぬ姿を留めていることに感動したことを、「おくのほそ道」に記しています。
 ~ 現地案内板引用 ~


 重要文化財 多賀城碑


 多賀城

 去京一千五百里
 去蝦夷国界一百廿里
 去常陸国界四百十二里
 去下野国界二百七十四里
 去靺鞨国界三千里

 西
 此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将
 軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置
 也天平宝字六年歳次壬寅参議東海東山
 節度使従四位上仁部省鄕兼按察使鎮守
 将軍藤原恵美朝臣朝獦修造也
     天平宝字六年十二月一日

 上部に「西」の1字があり、その下、細い線で囲んだ中に11行、140字が刻まれています。碑文内容は大きく二つに分かれ、前半は、京(平城京)などから多賀城までの距離が記されています。当時の1里は約535mです。後半には、神亀元年(724)大野朝臣東人が多賀城を設置したこと、天平宝字6年(762)、藤原恵美朝臣朝獦が多賀城を修造したことが記され、最後の行に碑を建てた年月日が刻まれています。
 碑文の内容が藤原朝獦による修造に力点を置いていることから、多賀城修造記念碑とみることができます。
 碑は歌枕「壺碑」としても有名で、元禄2年(1689)、
松尾芭蕉は「おくのほそ道」の旅の途中、碑と対面し、そのときの感動を紀行文「おくのほそ道」に書き残しています。
 また多賀城碑は、那須国造碑(栃木県大田原市)、多胡碑(群馬県高崎市)とともに日本三古碑のひとつに数えられています。
 多賀城と古代東北の解明にとって重要な記載があり、また、数少ない奈良時代の金石文として貴重であることから、平成10年6月30日、国の重要文化財(古文書)に指定されました。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  多賀城碑覆屋の写真
多賀城碑覆屋

 
  多賀城碑の写真
多賀城碑

 
    政庁南大路跡
 多賀城の正面である外郭南門から、中枢部である政庁まで、南北にまっすぐ通じる道路で、多賀城の中で最も重要な道路です。
 発掘調査の結果、道路幅は、政庁第Ⅰ~Ⅱ期(8世紀)が約13m、第Ⅲ~Ⅳ期(9~11世紀中頃)は約23mであったことが分かりました。政庁南側斜面は自然石を並べた階段が設けられていました。また道路には排水用の暗渠も設置されており、ここから多数の木簡が見つかっています。現在は政庁第Ⅰ~Ⅱ期の姿に復元整備しています。
 ~ 現地案内板引用 ~


 
 
  政庁南大路の写真
政庁南大路


 
    政庁正殿跡
 政庁の中心となる建物の跡です。礎石式の四面廂付建物で、その南は石敷の広場となっていました。現在は建物の基壇のみを復元表示していますが、礎石の一部は当時の実物です。
 ~ 現地案内板引用 ~

 
  政庁正殿跡の写真
政庁正殿跡

 
  政庁跡の碑の写真
政庁跡

 
  多賀城のパンフレット
パンフレット

 
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多賀城スタンプ
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