| 活 躍 し た こ と |
通称 木曽義仲。
1155年に父の義賢が甥の悪源太義平(源義平)によって、ここ大蔵館で殺されました。駒王丸は畠山重忠の父重能と斉藤別当実盛に助けられ、乳母の夫の中原兼遠のもとにかくまわれて、信濃国木曽で養育されました。1180年、以仁王の命により平家討伐をし、信濃を手中におさめました。1181年越後の城助職をやぶり、1183年3月には、長男である義高を鎌倉の源頼朝に人質としておくることで和睦し、東方の安全確保を図りました。また、5月には平維盛(これもり)を倶利伽羅峠で破って北陸道もおさえ、篠原の戦でも平家を撃破し、怒濤の勢いで平家を追って京都にのぼりました。こうし後白河法皇に謁し、朝日将軍の名称を贈られました。しかし、法王は頼朝と相通じ、義仲を撃つ計画をしたので、義仲は従兄弟の源頼朝と対決することになりました。義仲は寿永3年1月10日、征夷大将軍に任ぜられました。しかし、頼朝の命を受けた義経、範頼の追討軍に撃たれ、近江国の粟津が原の露と消えました。
時に寿永3年(1184)1月20日、義仲31歳でした。
|