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平林寺 野火止塚 野火止塚(九十九塚)は、和名抄に見る火田狩猟による野火を見張ったものか、焼畑耕法による火勢を見張ったものか定かでないが、野火の見張台であったとする説が有力である。この種の塚が古くからこの平野の各所にあって、その名残りを留めていたことでも分かります。 |
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平林寺 野火止塚 |
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平林寺 業平塚 在原業平が京より東口への東くだりの折、武蔵野が原に駒を止めて休んだという伝えがある。 |
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平林寺 業平塚 江戸名所図会によると野火止塚(九十九塚)と同じく、古へ野火を遮ぎり止むるために築きたりしものなるべきを後世好事の人、伊勢物語によりて名付けしなるべし。塚上石碑を建てて和歌の一首をちりばめたり。その詠にいわく「むさし野にかたり伝えし在原のその名を忍ぶ露の古塚」とあるが、この歌碑は今はない。 |
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野火止用水 野火止用水は、1655年に川越藩主松平伊豆守信綱が武蔵野開発の一環として、領内の野火止台地開拓のため、必要とする生活用水の確保を目的として開削した用水路である。 |
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野火止用水にかかる伊豆殿橋 幕府の老中職を務めていた信綱は1653年から1654年にかけて江戸市中の上水を確保するため、総奉行として難工事の末、玉川上水を完成させたが、この功績により、玉川上水から三分(三割)の分水許可を得て、野火止用水の開削に取りかかった。 |
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野火止用水にかかる伊豆殿橋 用水は多摩郡小川村(現、東京都小平市)で玉川上水から分水され、野火止台地を経て新河岸川に至る全長約25キロメートルにも及ぶ。工事は信綱の家臣である安松金右衛門らに命じておこなわれ、費用は三千両を要したと言われている。 |
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野火止用水 川越の商人榎本弥左衛門が書いた「萬之覚」によると掘り始めたのが1655年2月10日頃で40日後の3月20日頃には水が流れてきたことが記されている。水路は25キロメートルの間の高低差が約90メートルと非常に緩やかな勾配にもかかわらず、野火止台地の地形をうまく利用して引水されており、土地の低い所はいろいろな土を一層ずつ突き固める土木工事の技法である版築法を用いて堤を築き、堤の上に水路を開削するなど高度な技術が用いられている。 |
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野火止用水史跡碑 その後、平林寺掘、陣屋掘などの支流がつくられ、豊かな水を得た土地の人々は、この用水に深く感謝して「伊豆殿掘」とも呼んだ。以来300年余の永きにわたり野火止用水は、野火止台地と人々の心をその清らかな流れで潤し続けています。 |
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