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大阪城 |
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場所 :
大阪府大阪市 (Googleマップ)
築城年代 : 天正11年 (1583)、元和6年 (1620)
築城者 : 豊臣秀吉、徳川幕府
主要城主 : 豊臣氏、松平氏、徳川氏
スタンプ設置 : 天守閣1階インフォメーション
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![大阪城の地図画像](054_osaka/map_osaka.jpg)
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石山本願寺の時代
明応5年(1496)、浄土真宗の蓮如上人が今の大阪城の場所に一つの坊舎を営んだ。これはやがて石山(大阪)本願寺という大寺院に成長し強大な勢力を誇ったが、天正8年(1580)天下統一をめざす織田信長に屈し、寺院や寺内町は炎上した。
豊臣時代の大坂城
織田信長没後、政治の主導権を握った羽柴(豊臣)秀吉が天正11年(1583)、石山本願寺跡に築城を開始。天下人の居城にふさわしい大城郭を築き上げた。しかし、秀吉没後、政権は徳川家に移り、慶長20年(元和元年・1615)の大阪夏の陣により落城した。
徳川幕府による再築
大坂城は2代将軍秀忠の命により、元和6年(1620)から10年の歳月をかけて全面的に再築された。寛文5年(1665)に天守を落雷により失ったが、幕府の西日本支配の拠点として大きな役割を果たした。明治維新の動乱で多くの建造物が焼失した。
昭和の天守閣復興
明治以降、大阪城は陸軍用地として使われた。その中にあって昭和6年(1931)市民の熱意によって現在の天守閣が復興され、平成9年(1997)には国の登録有形文化財となった。大阪城一帯は第二次世界大戦の空襲によって損害をこうむったが、戦後は史跡公園として整備された。
~ パンフレット引用 ~
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![大阪城天守閣の写真](054_osaka/P1040701.JPG)
大阪城天守閣
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極楽橋
山里丸と二の丸とを結ぶ橋である。豊臣秀吉が天正11年(1583)に築造を開始した大阪城でもこの付近に架けられた橋を極楽橋と呼び、大阪夏の陣による落城後、徳川幕府が再築した時にも架け直された。江戸時代には幅約8メートル(4間)の木造で、慶応4年(=明治元年、1868)に起こった明治維新の大火によって焼け落ちたが、97年後となる昭和40年(1965)に再架橋された。現在の極楽橋は長さ約54メートル、幅約5.4メートルで、橋脚(きょうきゃく)・主桁(しゅげた)を鉄筋コンクリート造としつつも、上部は歴史的景観に配慮し伝統的な擬宝珠高欄(ぎぼしこうらん)としている。「極楽」とは仏教で説かれる安楽の世界をさすことから、戦国時代この地にあった浄土真宗本願寺派の本山、大阪(石山)本願寺以来の名称ではないかと考えられている。
~ 現地案内板引用 ~
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![大阪城極楽橋の写真](054_osaka/P1040688.JPG)
大阪城 極楽橋
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山里口出桝形
本丸と山里丸とを結ぶ通路に設けられた枡形で、徳川幕府が行った大阪城再築工事によって築かれた。外敵に備えるための、石組みに囲まれた四角い区画を枡形といい、特にこの場所は本丸から山里丸側に突き出していることから出桝形という。南には本丸に通じる姫門。東には山里丸に通じる山里口門があったが、いずれも明治維新の大火により、石垣上の塀とともども焼失したと考えられる。なお西は埋門となっていて隠し曲輪へと通じている。
~ 現地案内板引用 ~
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![山里口出桝形の写真](054_osaka/P1040690.JPG)
山里口出桝形
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![大阪城天守閣の写真](054_osaka/P1040692.JPG)
大阪城 天守閣
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![大阪城天守閣の写真](054_osaka/P1040693.JPG)
大阪城 天守閣
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![天守閣内部の展示写真](054_osaka/P1040695.JPG)
天守閣内部の展示
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号砲
この大砲は、全長348cm、砲口の内径20cm、外径40cm、先込め式の旧式砲で、材質は青銅の一種とみられる。
1863年、幕府の命令により、美作津山藩(岡山県津山市)の鋳工・百済清次郎らが製造し、大阪天保山砲台の備砲として据え付けられ、明治維新後、大阪城内に移されたものと伝える。
明治3年(1870)から時刻を知らせる号砲として用いられ、はじめは日に3度、明治7年からは正午のみ空砲が大阪市内にとどろきわたり、「お城のドン」、「お午(ひる)のドン」の名で市民に親しまれた。火薬節約その他の理由により大正12~3年(1923~24)頃中止されたが、その時期と事情ははっきりしていない。
~ 現地案内板引用 ~
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![号砲の写真](054_osaka/P1040700.JPG)
号砲
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桜門枡形の巨石
桜門の内側には、本丸の正面入口を守るため、石垣で四角く囲まれた「桝形」とよばれる区画が設けられ、上部に多聞櫓【たもんやぐら】が建てられた。この枡形は、徳川幕府による大阪城再築工事の第2期工事が始まった寛永元年(1624)、備前岡山藩主池田忠雄【いけだただお】の担当によって築かれ、石材は備前(岡山県)産の花崗岩【かこうがん】が用いられている。正面の石は蛸石(たこいし)とよばれる城内第1位の巨石で、表面積がおよそ36畳敷(59.43平方メートル)、重量は約108トンと推定される。向かって左手の巨石は振袖石【ふりそでいし】(袖石【そでいし】)とよばれ、表面積はおよそ33畳敷き(53.85平方メートル)で、城内第3位である。なお、上部の多聞櫓は慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の大火で焼失した。
~ 現地案内板引用 ~
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![桜門枡形の巨石の写真](054_osaka/P1040704.JPG)
桜門枡形の巨石
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![桜門と巨石と天守閣の写真](054_osaka/P1040707.JPG)
桜門の奥に巨石、その上に天守閣を望む
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![桜門の写真](054_osaka/P1040708.JPG)
大阪城 桜門
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![桜門近くの空堀の写真](054_osaka/P1040706.JPG)
桜門近くの空堀
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蓮如上人袈裟懸の松
本願寺第8代蓮如上人は明応5年9月この地をえらんで一字の坊舎を建立し明応8
年2月まで居住する。天文元年8月第10代証如上人は山科より本願寺をこの地に移し大阪(石山)本願寺と称す。ここに本願寺は大いに繁昌し道俗男女群集した。永禄13年(元亀元年)織田信長本願寺に難題を申し入れ遂に石山合戦の発端をなす。而して11年間攻防の末、天正8年3月勅によって和議なる。天正11年豊臣秀吉大阪城を築く。のち時代は変れども蓮如上人袈裟懸の松の根のみが残りわずかに往昔を偲ぶ。
本願寺津村別院誌(抜粋)
~ 現地案内板引用 ~
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![蓮如上人袈裟懸の松の写真](054_osaka/P1040712.JPG)
蓮如上人袈裟懸の松
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![パンフレットと入場券の写真](054_osaka/osaka_panf.jpg)
パンフレットと入場券
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