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川越城
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場所 :
埼玉県川越市 (Googleマップ)
築城年代 : 長禄元年(1457)、慶安4年(1651)
築城者 : 太田道真、太田道灌、松平信綱
主要城主 :
上杉(扇谷)氏、酒井氏、堀田氏、松平(大河内)氏、柳沢氏、秋元氏、松平(越前)氏、松平(松井)氏
スタンプ設置 : 川越城本丸御殿受付窓口
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川越城は、扇谷上杉持朝が長禄元年 ( 1457年 )
に太田道真(資清)・道灌(資長)父子ら家臣たちに命じて築城させた城です。当時、持朝が山内上杉房顕と連合し、古河公方足利成氏と北武蔵の覇権をめぐって攻防を繰り返していました。築城は扇谷上杉領の北端の拠点とするためと考えられます。
小田原を拠点に武蔵への進出を図る後北条氏は、天文6年 ( 1537 )
に川越城を攻め落としました。天文15年 ( 1546 )
扇谷上杉氏は当時対立していた山内上杉氏・古河公方とともに、川越城奪還を図りましたが、後北条軍の奇襲にあって大敗し( 川越合戦
)、 後北条氏は北武蔵への支配を固めていきました。
天正18年 ( 1590 )
豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城は前田利家らに攻められて降伏しました。同年8月、徳川家康が江戸城に入ると、江戸に近い川越城には重臣酒井重忠を置き、その後も幕府の有力な大名たちが川越に配置されました。
寛永16年 ( 1639 )
川越城主となった松平信綱は川越城の拡張整備を行い、本丸・二ノ丸・三ノ丸・追手曲輪・新曲輪などの各曲輪、3つの櫓、13の門からなる、総面積約9万9千坪
( 約32万6千㎡ ) 余りの規模を持つ巨大な城郭になりました。
~ パンフレット 引用 ~
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![川越城本丸御殿の図面](019_kawagoe/map_kawagoe.gif)
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玄関
巨大な唐破風屋根に間口3間の広い開口部と8寸角の太い柱が、石高17万石の大名御殿に相応しい威容を感じさせます。
~ パンフレット 引用 ~
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![川越城本丸御殿玄関の写真](019_kawagoe/gennkann.JPG)
川越城本丸御殿 玄関 |
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![川越城本丸御殿ま写真](019_kawagoe/gotenn.JPG)
川越城本丸御殿
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広間
36畳の広さを誇る御殿内で2番目に大きかった座敷で、来客が城主のお出ましまでの間、待機した部屋と考えられています。城主との対面は南側にあった「大書院」で行われたようです。
~ パンフレット 引用 ~
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![広間の写真](019_kawagoe/hiroma.jpg)
広間 |
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![杵黒熊毛槍鞘の写真](019_kawagoe/yarizaya.jpg)
杵黒熊毛槍鞘
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![大鎧の写真](019_kawagoe/yoroi.jpg)
大鎧
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廊下
座敷部分を取り巻く廊下は、場所によって床の材質が異なります。玄関のある東側部分及び中ノ口部分はケヤキ、南側から西側の広場西側部分には、ツガ・マツが使われています。これは御殿内の公的空間と私的空間を区別して、材種を変えたためと考えられます。
明治棟
この建物は、明治29年に描かれた「三芳野神社境内図」に姿が見られるため、明治初期に建てられたものと考えられます。本丸御殿が入間県庁や入間郡公会所として利用されたため、その付属施設として使用された可能性があります。平成20年度の修理に伴う解体によって、「大書院」などを同時期に解体された本丸御殿の部材の一部が、天井裏に転用されていることが確認され、古材が使用されている部分はそのまま保存し、柱などの一部を交換して補強しました。
~ パンフレット 引用 ~
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家老詰所
本丸御殿に勤務していた藩の家老が詰めていた建物です。江戸時代、藩主は参勤交代があり、実質的には家老が藩政を行っていました。この建物は、明治初期に解体され、現ふじみ野市の商家に再築されていましたが、昭和62年に川越市に寄贈され、現在のところに移築されました。
~ パンフレット 引用 ~
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![家老詰所の写真](019_kawagoe/karou.JPG)
家老詰所 |
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便所
本丸御殿は多くの人が集まる建物であるため、便所は御殿内の各所に設けられていました。多くは建物から突出する形で設置されましたが、家老詰所のように建物内に設置されたものもありました。
中之口
正面玄関に比べて間口2間半の一回り小さな規模の玄関です。屋根は当初千鳥破風であったと考えられ、現在の流れ屋根は昭和42年の修理の際に造られました。当初は北側に1間分長く突出しており、正面同様階段と式台もあったと推測されています。
~ パンフレット 引用 ~
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中ノ門堀
中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門 ( 市役所方面 )
から場内に攻め込んだ場合を想定して造られています。西大手門から本丸 ( 博物館方面 )
を目指して侵入した敵は、中ノ門堀を含む3本の堀に阻まれて直進できません。進撃の歩みがゆるんだところに、城兵が弓矢を射かけ鉄砲を撃ちかける仕組みでした。また、発掘調査では城の内側と外側で堀の法面勾配が異なることが分かりました
。中ノ門堀の当初の規模は深さ7 m、 幅18m、
東側の法面勾配は60°、西側は30°でした。つまり、城の内側では堀が壁のように切り立って、敵の行く手を阻んだのだ。
明治時代以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊される中、中ノ門堀跡は旧城内に残る唯一の堀跡となりました。
~ 現地案内板 引用 ~
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![中ノ門堀跡の写真](019_kawagoe/nakanomonn1.JPG)
中ノ門堀跡
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![中ノ門堀跡の写真](019_kawagoe/nakanomonn2.JPG)
中ノ門堀跡
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![川越城のパンフレット](019_kawagoe/kawagoe.jpg)
パンフレット&入場券
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