梅若伝説と梅若塚
伝説・話のページに戻る 春日部市ぶらり旅に戻る


 今からおよそ千年前、京都の北白川に住んでいた吉田少将惟房卿の一子梅若丸は七歳の時父に死別し、比叡山の稚児となった。十二歳の時、宗門争いの中で身の危険を思い下山したが、その時に人買いの信夫(現在の福島県の一地域)の藤太にだまされて東国へ下った。やがて、この地まで来た時、重病になり、藤太の足手まといとなったため、隅田川に投げ込まれてしまった。幸いに柳の枝に衣がからみ、里人に助けられて手厚い介抱を受けましたが、我身の素姓を語り、
 尋ね来て 問わば答えよ 都鳥 
         隅田川原の 露と消えぬと
 という歌を遺して息絶えてしまった。時に天延2年(974)3月15日であった。里人は、梅若丸の身を哀れと思い、ここに塚を築き柳を植えた。これが隅田山梅若山王権現と呼ばれる若梅塚である。
 一方、我が子の行方を尋ねてこの地にたどり着いた若梅丸の母「花子の前」は、たまたま若梅丸の一周忌の法要に会い、我が子の死を知り、出家してしまった。名を妙亀(みょうき)と改め、庵をかまえて梅若丸の霊をなぐさめていたが、ついに世をはかなんで近くの浅芽が原の池(鏡が池)に身投げてしてしまったという。これが有名な謡曲「隅田川」から発展した梅若伝説であるが、この梅若丸の悲しい生涯と、妙亀尼の哀れな運命を知った満蔵寺開山の祐閑和尚は、木像を彫ってその胎内に梅若丸の携えていた母の形見の守り本尊を納め、お堂を建てて安置したという。
 これが、安産、疱瘡の守護として多くの信仰を集めてきた子育て地蔵尊である。